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長井好弘さんに、訊いてみた。Vol.2「長井さん、リアルタイムで見た東京寄席演芸界の全盛期とは?」

長井好弘(写真右)ながい よしひろ

1955年生まれ、東京都江東区出身。読売新聞記者。都民寄席実行委員、浅草芸能大賞専門審査員。落語、講談、浪曲はじめ諸演芸に関する著書、編著多数。

【Twitter】http://twitter.com/tasukevic

Vol.1「長井さん、寄席演芸界にかかわるきっかけはなんでしたか?」

Vol.3「長井さん、講談界、そして「神田松之丞」に期待していることは?」

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松之丞(以下、松):幼少期に落語をはじめて観たところから、わかりやすく順を追って。

長井好弘(以下、長):生まれたのは隅田川のあっち側、"川向う"です。新大橋という橋がいまありますが、ほんとに川のそば。「おまえは、隅田川に捨てられたのを橋の下から拾ってきた」ってもれなく言われてる子どものひとりなんですが、昭和30年代っていうのは、まだ隅田川が臭かったんですね。環境汚染で。

:なるほど。生まれたのは。

:1955年。昭和30年の8月なので。

:いわゆる、落語全盛の時代に生まれたんですね。

:そうだね。三波春夫(注:浪曲師・演歌歌手)の息子と同じ日(注:8月10日)です。三波豊和(注:俳優)。これは昔、三波春夫さんに取材してる最中に発覚したんだけど。

:(笑)

:そのころに東京の下町、江東区と墨田区の境目ぐらいに育ってるんで、子どものころから「寄席に行く」ってふつうのことだったんだよね。特別なことではない。今月、錦糸町に映画観に行ったから、来月は浅草の寄席行こう、みたいな感じですね。僕の周りはそうだった。

:長井さんの周りはそうだった、って感じですか。へー。

:で、高校になってその話をすると通じない、ってことがはっきり分かるんだよね。僕は都立小松川高校(注:江戸川区)っていう学校だったんだけど、葛飾、江戸川、江東、墨田から学生が集まる。そのぐらいの範囲で、もう通じないんだな。だから江東区、墨田区ぐらいなんだよね。

:江東区、墨田区では、みんなふつうに。

:親に連れてってもらったり、叔母ちゃんに連れてってもらったり、関係ない知り合いのひとに連れてってもらったりしてるわけだ。

:どこの寄席にいちばん最初行ったんですか?

:結構小さい頃から行ってるはずなんだけど、記憶にあるのは小学校五年生なんですよ。

:はー。それ、いちばん最初に、寄席の覚えてる記憶。これは楽しみですね。なにがあったんですか?

:叔母と一緒に行ったんだけど、終わったあとに、上野で天丼を食べさせてくれる、って言うんで、それを楽しみに。上野広小路の、鈴本(演芸場)へ行く途中に、岡埜(栄泉総本舗)って餅菓子屋あるじゃない? あのへんに、「五万石」っていうね、天ぷら屋があったんだよ。そこの天丼がおいしくて。

:天ぷらの話はいいんですよ(笑)。じゃあ長井さんは鈴本に行ったんですか?

:鈴本。いまの鈴本じゃなくて古い鈴本ね。横から入ってって、右側が高座っていう。古い鈴本の写真見ると、遠くに「五万石」って、看板が写ってる。

:どんな記憶がありますか?

:おぼえてるのがね、「なんとか遊」っていうひとがいっぱい出てて、で、トリ(注:主任)が丸顔のおじいちゃんだった。

:(笑)

:ということは、先代(三遊亭)圓遊師匠なんだよ(注:四代目。1902〜1984)。

:芸協(注:落語芸術協会のこと。松之丞が所属している)に行ったんですね(笑)。

:そうだ、芸協に行ったんだね(笑)。

:鈴本にまだ出てた時代の芸協だったんですね(注:1984年以降、鈴本演芸場の定席には落語協会に所属する芸人のみ出演している)。

:あと覚えてるのは、キャンデーボーイズ。ブラザーズじゃなくて、キャンデーボーイズ、三人組。つまり、(翁家)喜楽師匠が入って三人だった(注:のちに鏡味次郎、鏡味健二郎でブラザーズとなる)。かっこよかったよね。のちに、健二郎先生にその話をしたら、すごいイヤな顔された。

:(笑)

:「ほんとか、おまえ〜」とか言われた。

:いろんなひとに話を伺うと、子どものころは、やっぱり色物(注:落語や講談などの話芸以外の芸種の総称)のひとをよく覚えてる。

:落語はね、おじいさんがしゃべってる、ってだけで、全然記憶にないのよ。色物のひとは、手品とか曲芸とか、よく覚えてて。好きなひといっぱいいたよね。漫談も面白かったよね。牧野周一先生(1905〜1975)とかね。

:牧野周一とかも覚えてるんですか。先代圓遊がなにをやったとか、覚えてないですか。

:いちばん最初の、寄席の心象風景っていうのは、もうキャンデーと天丼だけなんだよね。うちは、ふつうに行くときは上野鈴本なんですよ。で、ちょっとよそ行きだと、東宝名人会(注:1934〜1980年に日比谷演芸場が閉鎖されるまで定期興行していた)。なんたって、日比谷だから。

:東宝名人会の方が、全然格上なんですね。

:だって、有名会だもん。前座、二ツ目も出ないし。ホール(注:落語研究会や、後述する東横落語会など、特定のホールで定期的に開催されている落語会のこと)と寄席の中間ぐらい。本数が十本ぐらいでトリはしっかりやるし、正月は(立川)談志トリだし。

:そうかー。小学校五年でそれ観て、面白くて、天丼食った。「うわーいいなあ」って感じの印象を、いちばん最初に受けた。

:すっごい面白い、というよりは、映画とか、そういうのと同じくらいに面白い、ということね。「これも、いい」って感じだよね。だからあのとき、ちゃんと観てればいまネタにできたんだけど。うちのおふくろが言うには、うちの近所のイベントに、(八代目)桂文楽(1892〜1971)が来た、と。で、おまえの手をひいて、一緒に観に行った、って言うんだよ。まったく覚えてない。

:見たことは見たんですね。

:見てるはずだけど、文楽の「ぶ」の字の記憶もない。くそー! とか思う(笑)。

:まあでも、子どもには分からないですよね。

:だから、子どもを寄席に連れてくるのはどうなのかな、ってところがあるよね。子どもの成熟度にもよるけど、わたしは辛かったね。辛かったっていうか、色物があったからなんとか。あと終演後のご飯ね。鰻重か天丼じゃないとだめだった。

:高い子でしたね(笑)。

:そうそう。「面倒くさい子だよ。お子様ランチにしなさい!」とか言われて怒られた。

:客席ってどんな感じでした? 覚えてます?

:んー、なんか鈴本は地味だったね。お客さんは入ってたと思うけど。子どもだから、昼席しか当然行ってないんですけれど、やっぱり東宝名人会行くと、豪華だなって感じがしました。

:東宝名人会(笑)。まさか、それでのちに読売に入って、そういうのに携わるとか、そこでは思わないですよね。

:いちおう、好きだったことはずっと好きだったんだけども。中学から高校ぐらいのときは、テレビにけっこう演芸番組とかあったしね。

:時代的に、まだあったんですね。

:そう。当時はまだカセットテープの時代ですから、ラジカセをテレビにくっつけて録音するっていう。途中から、外の音が聞こえてきたり。

:あー。お母さんの、「ごはんよー」みたいな声が入っちゃう、ってことですか。

:なんでこのタイミングでー! みたいなことがありましたね。

:(笑)

:そのときは、落語が面白いというよりも、まだこんな噺がある、って、新しい物語、お話が聴きたい、っていう感じだったね。だから、聴いたことないネタ、演目が出されたら、必死で聴いてた。

:そんなひとって、周りにいたんですか?

:近所から来てる高校の連中には通じるんだよ。「こんど鈴本で(春風亭)柳朝(注:五代目。1929〜1991)がトリなんだけど行く?」「行く行く」とか。

:(笑)

:自分ひとりで行くようになったのは、浪人してるときだな。矛盾するようだけど、浪人してるときは、勉強する気がなくてね。

:(笑)

:現実逃避で。映画と落語に狂ってた。

:それ、たとえば、落語家になろう、とか、そういう発想はなかったんですか?

:んー、なかったし、落研(注:落語研究会というサークル)のある学校に行ったことがないので。あったら、もしかしたら、ってことがあるかもしれないね。落語を知りたい、って思ったけど、落語をしゃべってウケたい、って思ったことはないな。

:あー、なるほど。

:俺ね、面白いことが好きなんじゃなくてね、おそらく、古いことが好きだと思うんだけど。

:そういうタイプなんですか。

:そうそうそう。落語も古臭い方が好きだったね。よく分かんなくても。

:浪人時代って、どこ行ってたんですか、寄席ですか?

:寄席。

:ホールとかって、発想としてはないんですか。

:ホールはあるよ。あるけど、入場料が高い。あと、ホールは混んでる。寄席はそれほどでもなかった。

:長井さんの浪人時代っていうと、どのぐらいの時期ですか。1970年代ですか?

:そうですね。73年とか74年とか、おそらくそんな感じだと思いますけど。そのへんはね、やっぱり東横落語会(注:1956〜1985年、渋谷・東急百貨店東横店の東横ホールで開催されていた名人会)だよね。

:あ、やっぱり、東横全盛。

:東横全盛。で、僕らは前売り買うほど暇も金もないので、たまに金があるときに当日券で並ぶ。それは大変ですよ。延々とデパートの階段をずーっと下まで降りて並んで(注:東横ホールは九階)、で、チケット売り場の直前まできて「ここまで」って言われて。「帰れ」って言われる。

:うー(笑)。

:ほんとにひさしぶりに金があって行って、それっていう。その扱いはなに? みたいな。

:東横落語会って、伝説的なホール落語だと思うんですけど、やっぱり、落語好きにとってたまんないホールだったんですか? 圧倒的に。

:圧倒的に。空気が違う。ただ、落語会としては、聴きづらいホールでね。縦長なのよ。縦長で、銀座線の音が聴こえるんだよ。

:(笑)

:特に後ろの方は。真ん中に通路があって、後ろの方に行くとね、結構ガタガタうるさいんだよね。だから落語ファンにとっては、試練のホールでしたよ。

:高座に鉄瓶でしたか、昔を再現して。

:火鉢があって、そこに鉄瓶がかかってて。実際に鉄瓶でお茶飲んでたのは(三遊亭)圓生師匠だけだったと思う。

:(笑)

:そのへんが、イヤミな感じだったよね、いま考えると。

:めくり(注:舞台上で現在の出演者を知らせる紙札)も、いわゆる寄席文字(注:寄席特有のフォント)じゃない。

:ぶっとんだ字が書いてありましたね。

:なんか現代アートみたいな字で書いてある(笑)。

:そう。スカした落語会だったんだよ

:スカした(笑)。

:スカした落語会だから、行ったんだよ。

:浪人生にとってみると、そのスカし感はたまらないですか、やっぱり。

:そうねえ、ホールにっていうのは君が言ってる通り、お金の問題があるから、浪人生時代はそんなに行ってない。だから大学入ってからだよね。バイト代を全部つぎ込めるようになってから。

:はー。浪人時代、印象に残ってる高座とかって。東横に限らず。

:やっぱり鈴本なんだよなー。鈴本が、新しいのが出来たばっかりだったのかな。いっかい建て直して、二年くらいやってないんだよね(注:1971年)。

:二年もやってないんですか

:分かんない。そのころに行って「鈴本、おお! 綺麗じゃん!」ってな感じでさ。

:へー。人形町末廣って、長井さん間に合ってるんですか(注:1970年閉場)?

:間に合ってますけど、行ってないです。

:あ、そうですか。

:だって、行きようがないもん。不便なところなんだから人形町ってさ。地下鉄が通るまでは。だから、客が来なかったんだから。

:なるほどなるほど。そっかそっか。じゃあ、長井さんのなかで、上野鈴本ってちょっと特別というか。ずっと行ってた。

:僕のなかで、寄席っていえば、まず鈴本だよね。

:あー。俺、そういうひとに初めて会いました。

:それはもう、完全に地域的な問題だった。家から行くのに、いちばん行きやすい、っていうだけ。バスでも行けるし、都電を乗り継いでも行けるし。

:そうか。地域性がめちゃくちゃ出るんですね。

:だから、新宿末廣亭って、大学三年ぐらいまで行ったことなかった。というか、新宿そのものに行ったことがなかった。渋谷なんか、もっとだよ。江東区、墨田区の人間にとって、渋谷っていうのは、地の果てなんだよね。遊び人とか暴力団がいるところ。そういう感じ。

:長井さん、怖がりとかじゃなくて、みんな基本そんな感じですか。あんまり行かないっていう。

:錦糸町よりも怖いかもしれない、っていろんなこと言ってたよ。

:(笑)そうかー。で、上野鈴本で印象にある高座とかどんな

:鈴本で聴いて、いちばん印象に残ってるのは、先代柳朝です。

:あー、そうですか。柳朝師匠お好きなんですね。どうよかったんですか? 僕は柳朝師匠、間に合ってないんですけど。

:どうよかったって...面白かったからね。

:(笑)いやいや、評論家ですから。

:当時、評論の対象として観てるわけじゃないから。それが、当時の寄席のスタンダードだ、と僕は思ってたのね。このひとが基準だな、っていう風に。勢いがあって、自然に東京弁をしゃべってて。つまり、僕らと同じ言葉をしゃべってて。

:柳朝師匠以前は、ちょっと昔の落語家な感じなんですか?

:口調が、ほらさ、昔のジジイの口調なんだよね。

:あー、なるほど。柳朝師匠っていうのは、長井さんから見て、いまの俺らの落語だ、代表だ、ってことだったんですね。

:柳朝はそうだったね。「もっと押せよ」ってところまで、サラッと流しちゃったりするから、それが恰好いいんだよね。

:はー。その意見初めて聞いた。

:古いタイプのスタンダードなんだろうけど、僕としてはこのひとが基準だなって、そういう感覚で観てたよね。だから、暇があって、鈴本がやってて、柳朝がトリなら、観に行く。

:そういうのって、当時、「東京かわら版」みたいなのはあるんですか。

:ない。

:それ、どうやって見つけるんですか。「柳朝トリ」とかっていうのは。

:新聞広告。新聞に、メンバー載ってるんだもん。

:え!

:短冊みたいな映画案内とかあるじゃない? いまはあんまりないけど、昔はいっぱいあったんだよ、豆板広告みたいなやつ。小せん、夢楽、小円馬、柳朝って、名前しか書いてない。

:(笑)それを若いころの長井青年は見て。

:ネットとかあれば、ほんとに便利だったよね。なんにもないんだからね。だから、一緒に行く友達がいないんだよ。その情報がわかち合えないんだから。

:だいたい、インタビューするひとたち、そうです(笑)。

:行けば、「あ、あいつまた来てる」みたいなことはあるんだけど。そのうち、「ぴあ」に寄席情報がある、ってことが分かったから、「ぴあ」に、こう、黄色いマーカー引いて。

:(笑)

:ほんのちょっとの、「ステージ」っていう、2ページぐらいの端っこの方で。切り抜いてノートに貼ってたもん。

:もう、いま「ぴあ」ないですけど(注:2011年廃刊)。そのころって、落語会自体少ないですよね。

:少ない。ホールか寄席しかない。ほかにもあったとは思うけど、情報がないから分からない。地域寄席なんか、全然分からない。だから、極端なんですよ、寄席でワアワアやってるか、ホールでピシッとやるか、ぐらいしかない。

:たとえば、圓生独演会とか、そういう師匠方って、当時独演会とかやってたんですか。

:やってた。僕は「ぴあ」の懸賞で当てて行ってたね。

:(笑)

:あんなもの、応募するやつあんまりいなかったんだろうね、きっと。「けっこう当たるな、これ!」って。

:懸賞で行ってたんですか(笑)。へー、面白い。僕は、もともと圓生師匠聴いて、すっごい面白いな、って落語の世界に一歩足を踏み入れたんです。

:わたしも圓生ですよ。

:あ、そうですか!

:圓生だけを聴きに行ってた。圓生を聴きに行ってたら、いろんなひとがついてくるから、なんとなく、どんどん広がっていったっていう。はっきり言って、(林家)正蔵師匠(注:八代目。1895〜1982)は、よく分からなかったからね。

:んー(笑)。

:好きな柳朝師匠が、「うちの師匠はね、正蔵師匠っていうのは、みんな聴いて、聴き飽きたひとがパッと聴くといいんだよ」とか、わけ分かんないこと言ってて、そうかもしれない、とか思いながら。

:あー、そんな感じでしたか。

:そのころになると、寄席はたまにしか行かなくて、「やっぱりホール落語じゃないとね」みたいな感じでしたね。で、TBS落語研究会と東横落語会の二本立て。にっかん飛切(落語会)であるとか、東京落語会であるとか、三越落語会であるとか、っていうのを、たまーに行く、っていう。たまに行く、っていうのはお金がないから。

:長井さん、(古今亭)志ん生師匠(1890〜1973)とか間に合ってます?

:間に合ってないです。僕が高校時代に死んじゃってるでしょ。病気で倒れたのも、僕の6歳のときだから、もう無理です。口の回らない志ん生のテレビ中継を見たことがあります。もうそのころは、寄席に出てないし。

:なるほど。じゃあ完全に圓生時代なんですね。

:圓生です。ホール落語では、ほかのひとすべてを凌駕するぐらい圓生はすごかった。圓生っていうのは、ご存知の通り、年取ればとるほど、よくなってくわけで。最高潮のときに、ポコッと死んじゃってるわけ。だからもう、「正札附」(注:圓生の出囃子)が聴こえてきた段階で、わたしは背筋を伸ばして「聴かしていただく」って感じだよね。

:それ、読みましたよ、どっかの文章で。

:ほんとにそうでしたよ。ほかのお客さんもそうだったと思う。「ハッ、圓生だ!」みたいな。だから、圓生がときどきくだらないギャグをやると、ホントにおかしいんだよね。

:やっぱり"緊張と緩和"なんですね。

:「ストはよくないですナ。スト(人)に迷惑をかける」なんてことを、いきなり言いだすんだよ。あと東横の、あの鉄瓶ね。いつも自分で手をのばしてお茶入れて、こう、飲むんだけど、届かないときがあったの(笑)

:(笑)

:「まったくもう、近頃の前座というものは」ってなことを言う(笑)。

:鉄瓶から飲む、っていうのは、間が大変じゃないですか。そもそも、湯沸いてるわけですか、あれって。

:沸いてる。もちろん白湯なんだけど。(桂)春團治師匠がいつ羽織を脱ぐか、ってあるじゃない。俺らも、「いつ飲むか」っていうのは気になってたよね。

:でもそれ、すごい技術だなー。

:いつ飲むか、とかね、ほんとに飲むかたちが自然でね。カッコいいのよ、これが。

:家で稽古したんでしょうね、圓生師匠。で、圓生師匠がお亡くなりになったのが79年で、長井さんが読売に入社した年で(注:Vol.1参照)。宇都宮に四年半いた。

:その間が、僕の落語空白地帯。これが1979年に行った落語の記録なんだけど。八月からってことは、それ以前は休みもらってないから、行けてないんだよ。おそらく夏休みなんだよこれ。

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:あ、なるほど。夏休みに行って。

:あとは冬休みなんだよ。中途半端な時期やつは、仕事さぼって行ってるんだと思う。当時はスマホなんてないから、「ちょっとポケットベルが壊れてまして」みたいな感じで。宇都宮からだったら、浅草まで日帰りで十分行けるので。

:名人で言うと、(柳家)小さん師匠(注:五代目。1915〜2002)とか(古今亭)志ん朝師匠(1938〜2001)とか、柳朝師匠もいますね。(立川)談志師匠(1936〜2011)、それから(桂)文治師匠(注:十代目。1924〜2004)とか。

:面白いよね。(古今亭)朝太・談志のリレーで「品川心中」やってるからね、これね。

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:朝太って、前の。

:いまの(古今亭)志ん輔さんだよ。志ん輔さんが、朝太時代、いかに嘱望されていたかだよね、ここで談志とリレーをやるってことは。

:そうだ、すげえ!

:当時、立川流のひとは、まだちゃんとふつうにいるからね(注:1983年に落語協会を脱退して以降、基本的には寄席に出演していない)。

:これ演者多いですけど、実質行ってるのは九つ。

:これが精いっぱい。この年九月のあたまに、圓生が死んじゃった。僕はこの年の春に、大学卒業で、最後だからと思って、有り金はたいて圓生の歌舞伎座公演を観に行ってる。

:観に行ってるんですか! よかったですね、間に合って。

:そう。「(怪談)乳房榎」と「首屋」ですよ。重信殺し(注:「怪談乳房榎」の一場面)の蛍狩りのところで、廻り舞台になって橋を越したり。

:そんなことやってたんですか。

:カッコよかったよ。あれが僕の圓生最後で、「しばらく行けないけど、待っててね」って心の中で舞台へ声をかけた。当時、圓生さん絶好調だったから。大ネタばんばんかけて、大きなハコ(注:会場のこと)でやって。だから、まさか死ぬとは思わなかったもんね、その半年後に。

:ショックが半端なかったわけですね。

:落語聴くのやめようかと思ったぐらい。

:落語協会分裂(注:1978年、圓生が中心となって「落語三遊協会」を設立し、落語協会から脱退した)にリアルタイムで接してますけど、どういう思いがあったんですか。

:リアルタイムで記者会見とか見てるからね。志ん朝さんの記者会見とかさ。先代(橘家)圓蔵師匠の「へへへ、副会長です」なんつってね、嬉しそうな顔してたんだから。

:(笑)

:僕はガチガチの圓生派だったから、「これは大変なことになった」って思いましたね。大変なことになったって思うし、すぐに圓生が孤立するような状態になったので。

:「俺が応援しなきゃ」みたいなこと思ったんですか?

:うーん、そうだね。追っかけなきゃ、と思ったけど。世間的には、「圓生頑張れ!」みたいになってたから。

:あー、やっぱりそうだったんですか。

:独演会はいつも超満員だったし、「髪結新三」だとか「梅若礼三郎」だとか、とんでもないネタばっかりかけてて、圓生さんの輝きはすごかったね。

:そっか。やっぱり長井さんのなかで、圓生師匠は特別なんですね。

:特別だね。わたしが京須(偕充。Vol.1参照)さんのことが好きなのは、「圓生百席」(注:百以上ある圓生の持ちネタを、スタジオ録音したLP。のちにCD化された)を作ってくれたことと、「圓生の録音室」(注:「圓生百席」の制作現場を通した圓生論)っていう本を出してくれたこと。俺、あのひとにファンレター書いたことあるもん。

:(笑)ファンレターを京須さんに書いたんですか? 学生時代?

:読売に入ってから。「「圓生百席」はお金がなくて買えなかったけれども(注:全巻セットで二十万弱)、本当に素晴らしいです」って書いたら「圓生百席」くれた。すごくいいひとだよ。

:(笑)そういうような時代を経て、圓生師匠が亡くなって、状況が変わっていったんですか。

: で、次はもう志ん朝ですよ。当時、三百人劇場(注:2006年閉館)で、「志ん朝の会」やってて、全盛期だったから。これは観なきゃいけない、って、観てその日に宇都宮へ帰るっていう。もう大変なんだ、千石まで行って、帰ってくるの。

:みんなそうでした? 圓生師匠の次に託すのって、志ん朝師匠だったんですか。

:ふつうそうだと思います。談志好きは、もともと談志好きだ、っていうことですもんね。まあ、志ん朝に託すしかない、っていう思いがおそらくあったんだろうね。

:そのころの小さん師匠って。

:小さん師匠はバリバリやってたよ。ただ、小さん師匠って、すごいひとなんだけど、指で数えれば、三番目か四番目くらいに入ってくるひとなんだよ。

:あ、それ読みました、文章。

:必ず入るんだけど、一番とか二番じゃない。つまり小さん師匠は必要だけど、いなきゃ困るけど、っていうものなんですよ。「小さん師匠"が"好き」じゃなくてさ、「小さん師匠"も"好き」っていう。

:なるほどなるほど。"託す"のは志ん朝師匠で。

:まあ、ひねくれたやつは「(金原亭)馬生(注:十代目。1928〜1982。志ん生の長男で、志ん朝兄)のが好き」ってのがあるんだけどね。

:馬生師匠どうだったんですか。

:馬生師匠は、はっきりわかれてたと思う。正蔵師匠まではいかないと思うけれども、評価がわかれるところ。だってさ、聴いてみないと面白いか面白くないか分からないんだもん。当たりはずれがあるし。

:そうか、ムラがあるんですね、馬生師匠は。志ん朝師匠は、はずさないから、お金払って時間さいて行く、っていうのにまったく無駄がないっていう。

:華があるんだよね。若いころの志ん朝、四十代の志ん朝っていうのは、もう惚れ惚れするような舞台でしたからね。どんな色っぽい女連れてきてもかなわないよね、っていう感じの。

:そうですか。

:談志、志ん朝どっちが上手い、っていうと考えちゃうけども、華がある・ないだったら、全然比べものにもならない。

:なるほど。馬生師匠は華なかったですか。

:ないよ。むしろ消してたんじゃないかと思うぐらい。

:ぐらい、ない。

:そんな余計なことじゃなくて、俺の噺聴いてくれればいいから、みたいなやり方だったけれども、もう、つっかえるし、忘れるし、適当だしさ。

:(笑)

:でも、ものすごく面白いこともあるんだよ。冬の「親子酒」と秋の「目黒の秋刀魚」、夏の「あくび指南」、そのあたりですよ。もう、「目黒の秋刀魚」は馬生師匠以上のものはないね、ってぐらい好きだった

:「目黒の秋刀魚」、談志師匠が言ってたのは、馬生師匠がほぼ作ったみたいな。

:そうかもしれないね。とにかく面白いんだよね。「親子酒」と「目黒の秋刀魚」に関しては、もう完璧でね。

:芸協は観てないんですか、もう。

:芸協はね、実はそのころあんまり観てないんだよね。

:いま、芸協贔屓じゃないですか、長井さん。

:芸協はね、(桂)小南師匠(注:二代目。1920〜1996)のトリのとき観てた。

:なるほどなるほど。

:「蜆売り」をやってくれるとか、「百年目」を演ってくれるとか、聴いたことないネタ、つまり上方のネタをやってくれるひとが、小南師匠しかいない。(桂)小文治師匠(注:二代目。1893〜1967。元は上方=大阪の落語家であったが、1916年に上京して以降、東京に定住)の晩年間に合ってるけど、なに言ってるかよくわからないおじさんだった。

:いわゆる上方ネタ聴きたいんであれば、小南師匠しかいなかったんですか(注:小南は京都府出身。東京で三代目三遊亭金馬に入門、のちに小文治の一門となる。上方なまりが抜けなかったため、江戸落語を封印し、上方ネタに転向した)。

:いなかった。それ、もうしょうがないんだよね。だから小南師匠聴くんだよね。よいとか悪いとかじゃなくて、小南じゃないと聴けないんだもん。

:ホールはどうですか。

:ホール落語が、つぎつぎとダメになっていく時代だよね。

:圓生師匠が亡くなって、ってことですか

:レギュラー制がなくなっていくんだよね。だれか抜けても、新たなレギュラーを入れない。で、談志、(三遊亭)圓楽(注:五代目。1932〜2009)、志ん朝がレギュラーを断る、っていう時代になってきて。そうなると、毎回(出演者が)違うと、当たりはずれがあるから、継続的にはホール落語に行かなくなるんだよね。

:なるほど。

:実際、お客も入んなくなってきてて。山本益博さん(注:落語・料理評論家)あたりが、単発的な仕掛けの落語会をずいぶんやって。「文楽プレイバック」とかね。あとは、「若手花形落語会」だね。

:それなんですか?

:(柳家)さん喬、(五街道)雲助、(立川)左談次、(春風亭)一朝、そのへんのひとたちが、本牧亭(注:上野広小路にあった講釈場。2011年閉場)を根城に、月に何回か、それこそ成金(注:松之丞を含めた、若手落語家・講談師十一人のグループおよびその関連公演名)みたいな公演。

:ユニット組んでやってたんですか

:ユニット組んで。昼席の本牧亭でやってたの。隔月に一日が二日になり、四日になり、ゲストを入れるようになり。若手花形=そこに入ってくるだけですごい、みたいな。

:それは活気があったんですか。

:すごかったねー。本牧ですから、キャパ100くらいのところ、もう後ろの売店までいっぱいになって。全部、仕切りをこう、取っ払って。

:へー、人気あったんだなあ。

:もう、すごかったよ。でも、すごい疲れるんだよね、さすがに。全員三十分とか熱演でさ。左談次さんが出てくると、ホント助かるんだよね。「あ、このひと十五分で終わる」、一緒にしたら失礼かもしれないけど、成金における(三遊亭)小笑さんみたいなもんだよ。

:あー、そうですか。面白いなあ。

:さん喬、雲助だよ。さん喬、雲助を中心に、(柳家)小里ん、(柳家)小燕枝、全部実力派。(柳家)権太楼さんとか、年(令)は同じなんだけど、(入門した)世代的にあとだから、入れてもらえなくて。真打になったら抜けて、とかそんなかんじ。(入船亭)扇遊さんあたりが一番最後じゃないかな、入ったの。

:レギュラー五人ですか。

:いや、十人ぐらい。ユニットですから。全員出るわけじゃないけど、毎回八人ぐらいずつ出て。だから終わらないんだよ。十二時から十八時くらいまでやってるんだよ。で、それに対抗して、「若獅子落語会」っていうユニットができて。

:えー! それメンバーだれなんですか?

:これはね、(林家)正雀さんとか(林家)時蔵さんとか入ってたかな。

:じゃあ、いま成金云々言ってますけど、当時からあったんですね。

:いや、成金よりもっとよいよ。

:(笑)比べられてもね。方向性違うし。

:言っちゃ悪いけど、いまの成金に、さん喬、雲助がいるか分からないけど。将来的になるかもしれないけどね。第一、ネタの重さが違うんだよ。成金ってさ、熱演してるけど、ネタそのものは普通のネタの場合もあるじゃない、トリ以外は。はじめっから終わりまで、トリネタなんだから(笑)。いきなり「花見の仇討」からはじまったりするわけだよ。

:(昔昔亭)A太郎兄さんが、開口一番で「文七元結」やるのに近いんですか、それは。

:みんながやったら怖くない、っていう状態なんじゃない。もう、「俺が」「俺が」「俺が」みたいな会だったね。つぎに上がったやつが合わそうとしないわけだから、「じゃあ俺も」って話になるわけ。で、左談次さんだけが大ネタがないので、軽くやって、すごい評判がいいわけですよ。

:(笑)

:うまいしね。小笑さんと比べると、ちょっとうまい。

:なんで左談次≒小笑なんですか(笑)! 左談次師匠の方が全然うまいでしょ。

:(笑)

:そっか。ユニットとかいろいろあって、そういうのも観て。

:当時といまと違うのが、「若手の情報がない」ってことだよね。

:あー。

:二ツ目の会が全く分からない、近所でやってくれない限りは。二ツ目の情報がないなかで、本牧亭でやってた「若手花形」は、すんばらしい落語会だったので。ただ、こっちも「聴くぞ!」って思ってるときに聴かないと、体力的に負けちゃう。

:そっか。六時間ぐらいやってたんですもんね。

:年末スペシャルとかいって、四日連続ぐらいやっちゃうことも。ほんと成金だよね、これね。若手はみんな出たくて。羨ましくて。

:ちょっとムーブメントだったんですね。

:そうだよ。さん喬さんに聞きにいけばいいよ。

:いや、接点ないし(笑)。


Vol.3「長井さん、講談界、そして「神田松之丞」に期待していることは?」につづく。

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