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木村万里さん(渦産業)に、訊いてみた。Vol.2「万里さん、立川談志師匠と「神田松之丞」は似ていますか?」

木村万里(写真右)

1948年、富山生まれ大阪育ち。笑いのジャンルシャッフルライブ「渦」を主催するほか、夢空間、成城ホール、北沢タウンホール、清瀬けやきホールなどの公演の企画制作を手がける。

【ホームページ】http://uzumarishiro.web.fc2.com/index.html
【Twitter】http://twitter.com/uzumarishiro

Vol.1「万里さん、なぜ「神田松之丞」を"志の輔師匠以来の抜擢"したのですか?」

Vol.3「万里さん、いちばん好きなひとと、いちばん嫌いなひとは誰ですか?」

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松之丞(以下、松):どこが似てますか? やっぱり似せてるのかな。

木村万里(以下、万):いろんなことに配慮しながら、いろんなことを考えて動いてるじゃないですか。ホームページが必要だな、と思って作ってるし。Twitterまめに発信したり、ホームページ作って、わたしにインタビューするとかもね。そういうことを、ちゃんと考えてるじゃない。それがすごいよね。談志師匠もすごいですよ。「このひと面白いな」って思ったら、すぐ行って「友だちになりましょう」って言うようなひとでしたから。たぶん自分に自信もあるんだろうな。それは全部自分の糧になりますもんね。講談って誰も知らないわけだから、強みですよね。

:それよく言われるんです。逆に強み、ってとった方がいいですか。

:強み。知られてないことの有り難さ、ですよ。で、なにも知らずに松之丞講談を観にきたら、驚くから。きっと日本の話芸で、ここまでやってたらびっくりすると思う。よくぞ講談の世界に入ってきてくれて、ありがとう! って感じですよね。それから、(ネタを)どんどん覚えるよね、すごいよね。記憶力、前から良かったんですか?

:いや全然よくないですけど。なんとなくやってるだけなんですけど(笑)。

:談志師匠も、聴いたらすぐ覚えた、って言ってらしたから。

:万里さんが最初に談志師匠を観たのはいつですか?

:19だったかな。五科目試験の大学受験に二回落っこったんですね。数学が八点で。他の教科がどんなによくてもダメで。でも、一浪したけど、またダメで。

:へー(笑)

:一校しか受けてなくて。それで、自分のダメな分を埋めなきゃ、って思うわけですよ。ひとりっ子で、ぼーっと育ってるから、もっと世間のこともわからなきゃ、って思ったのね。それで、いきなり住み込みの仕事を始めたんですよ。極端にいっちゃうんだよね。

:大学受験に失敗して、住み込み!?

:天王寺の以和貴荘(いわきそう)っていう公共施設。公務員とか学校の先生が利用する、宿泊と会議と結婚式と宴会、そういう施設で働きはじめた十月に、談志独演会があったんですよ、うめだ花月(劇場。注:2008年閉館)で。これどうしても行きたい! って思って。ふつうなら休ませてもらえないんですよ。婚礼が一日に五組とか六組とかある時期だから、猛烈に忙しいわけ。だけど、絶対! って言って、わたしだけ休ませてもらって、行ったのはなんでかなあ。

:そのころ万里さん19ぐらいですよね。19が談志どうしても観たい、って思わないですよね。

:ラジオが先だったのかな? 月曜だけ大阪に来て、生(放送)でABC放送のDJやってらして。かばん持ってついてきてたのが、当時談奈、いまの(立川)左談次さん。たぶん放送を聴いたのが先だったんじゃないかな。でないとそんなに観たいと思わないはず。談志師匠としては、大阪で独演会って大変なことだから。そのころでもね。だから、たぶん気合い入ってたと思う。それで、わたしは前から二列目の席で聴いたのね。そのときに聴いたのが、「芝浜」だったんですよ。

:はー。

:もう、ほんとにいい「芝浜」。びっくりしちゃって。終演後、落語に痺れて、お客さんが後ろ髪引かれる、帰りづらい感じで。で、わたしは門限があるもんだから、帰らなきゃ、って思うんだけど、談志師匠がお辞儀しながら、舞台前に来たひととしゃべったり扇子あげたりとかしてるじゃない。わたしも舞台の側へ行きたいけど、時間ないから行けないじゃん。四分の一ぐらいお客さん残ってたのかな。で、わたしがいきなり拍手したんですよ。そしたら残ってるひとたちがみんな一緒にワー、って拍手したんですよ。それがすごく印象に残ってる。わたし、グッジョブ!

:そのころ、談志師匠は32くらいですか。

:32。ひとまわり上だから。

:僕と同じ歳なんですよ(注:1983年生まれ)。

:そうそう、そうなのよ!

:すげえ。その歳の「芝浜」で、そんな風になるんだなあ。全然違うな、俺と(笑)

:うちの父親が飲んだくれだったんですよ。だから「芝浜」羨ましかったんですよ。「あー、こういう風になればいいな」っていうのがあった。羨ましいな、っていうのと、たったひとりでこんな風に空間を支配できる、っていうかね。左右できる。その芸のすさまじさに打ちのめされて。

:そこで「うわっ!」っていう衝撃を、万里さんが32歳の談志師匠に感じた。

:そう。それで、もうとにかく走って帰ったんですよ。時間ないから。パッと電車に乗って座ってパッとミニスカートの膝を見たら、真っ赤だったんです、脚が。興奮してね。走ったのもあるんでしょうけど。

:へー。それ以来、万里さんのなかで、なにか変わったんですか?

:たぶんね、それまで"表現"っていうことにあまり関心なかったんですよね。ひとにどう見せる、とか。そのとき初めて、"表現"っていうことがあるんだな、って思ったんじゃないのかな。それでお手紙書いたんですよ。

:談志師匠に。

:そうそう。あ、思い出した! で、一緒に住み込みで働いてた子の友達が(桂)三枝さん(現・文枝)のファンで、手紙を渡すのどうのと言ってたので、一緒に渡してって頼んだんでした。三枝さん経由にした方が確実に届くだろう、と。大スターだったから、そんなもんどうせ読んでもらえないだろうと思ってました。そしたら返事が来て、それが。

:え、持ってきたんですか!? 

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「拝複(原文ママ)貴女を覚えていますヨ。私が客席をみて左側前のほう...違うかな。もしそうだとしたら噺の中で時折貴女に語りかけたはずです...もし違っていたら。それでいい。それよりもこの文面の楽しさ。頭のよさ。(センス)一度話をしたいと思います。月曜は十時半ー一時半。abc。泊りはロイヤルホテル。翌日(火曜)昼ごろまでに一度TELして下さい。」


:すごい! うわ、素晴らしい。えー、すごい文面! これ嬉しいですね! 

:こんなのもらったらさあ! これが以和貴荘の、自分の手紙が届く木のボックスがあって、見たらこれが入ってるんですよ。えー! と思って。

:すごいなあ。それだけ心打つものを万里さんが書いたんでしょうね。

:この(リーガ)ロイヤルホテルに泊まってる、っていうのが、たぶんステータスだったんでしょう。嬉しかったんだと思う。

:へー。立川談志って千社札も貼ってある。これすごい貴重な。

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:わたしも作戦考えてね。うめだ花月で観るときも、目立たないといけない、って思ったんだ。それでね、赤いネクタイをして行ったんですよ。真っ赤なネクタイを探して。で、お手紙書いたときに「赤いネクタイの女の子」って書いて、赤いネクタイの絵を差出人のところに描いて。だからわたしだ、って分かったのかもしれない。

:で、万里さん手紙もらって会いに行くわけじゃないですか。

:電話して、喫茶店で最初会ったときに、あれは確か中田明成さんかな。有名な作家の人もいて、お話しました。

:どんなお話したんですか?

:これがね。わたし最初に失礼なこと聞いたな、と思うんだけど、「いちばん好きなひとと、いちばん嫌いなひとって誰ですか」って聞いたのね(笑)。

:談志師匠に(笑)。素朴だなー。

:そしたらね、好きなのは紀伊國屋(書店創業者)の田辺茂一さんだと。嫌いなのは柳家小さん(注:五代目。談志の師匠)だって(笑)。

:実際に会った第一印象って、高座で観たのと違うな、って感じありました?

:まるっきり同じだね。普段もずっとしゃべってるし。

:(笑)

:なんでこんなにしゃべるんだろう、ってぐらいしゃべってる。わたしは口数の少ない環境で育ったから、こんなにしゃべるひとが世の中にいるんだとびっくりして見てました。

:なにをしゃべりました? 

:もう質問したことぐらいしか覚えてない。あとなんだろうな。大阪について知りたかったんでしょうね、きっと。大阪の若い女の子がなに考えてるのか、とか知りたかったんじゃないのかな。

:当時、客席にそういう若い子いなかったんじゃないですか?

:ああ、そうかもしれない。「隣にお兄さん座ってたでしょ」って。そういえば男のひとが隣にいたらしいんだけど、知らないひとなんですけど、そこまで見てる、ってことにびっくりしました。洋服も、チェックの着てたよね、って。反応が良かったからじゃない? こう、前のめりで観てたから。えらく若い、集中して聴いてくれる、気合いの入った女の子がいたら、ねえ。

:そうかー。

:談志師匠は若い子にウケたいから。ほら、"落語はダメになっていく"って「現代落語論」(注:談志の著書。1965年刊)に書いたころでしょ? だから、いかに若い子にウケようか、どうればいいんだろう、って。しかも大阪だから。若い女の子だし可愛いし、またおいでよ、って感じだったんでしょうね。

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そのころの万里さん。

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25〜6歳の万里さんと談志師匠。

:万里さんはそういう出会いがあったから、談志師匠が好きだな、って。

:面白いな、って。面白かった。"大人"ってみんな表向き、建前ばっかりで、もう"大人"大嫌いだったから。嘘つきばっかり! って思ってて、大人になるの嫌だった。談志師匠は、ぽんぽんなんでも言うじゃん。だから「本物だ」って。

:万里さんが19歳で談志師匠の「芝浜」を観て、ある種引っ張られるようにしてこの業界に入ることになって、談志師匠が死ぬまで観ていたと思うんですけど、それだけ長い期間観てて、談志師匠に対してどういう感想を。

:わたしは60くらいのときが好きでしたよ。50~60とかね。勢いはないけど、違う感じのよさがね。「黄金餅」だったか「らくだ」だったか、(有楽町)マリオンで聴いて、登場人物が本当に歩いてきて、ここに水たまりがあったら、ここで飛ばなきゃ、みたいな。その次になにがあるか分からない、っていう落語がすごいなって思って。そのときは、これ観たらもう、ほかのひとの落語も談志落語のほかのも、聴かなくていいな、って思った。一切いらないな、って思うぐらいすごかった。

:万里さんはおいくつで大阪から東京へ?

:20歳か21歳ぐらいかな。当時付き合ってるひとがいたんですね。そのひとが早稲田(大学)に入ったんですよ。

:それで東京に行きたい、と。

:家を出たいというのもあったし。あと神保町もあるし、本大好きだから。とにかく本に関わりたいと思ってたから。図書館司書短大が東京にあったし。司書になれれば最高、って思って。

:じゃあ寄席うんぬん関係なく、本の中で生活していきたいって。

:そうそうそう。本の側に居れればねって。それで東京に出てきちゃったんですね。友だちの友だちの女の子が、ひとり東京にいて、高円寺に部屋借りていて、部屋をシェアする子を探してる、っていうから、じゃあそこ行く、って言って。その子がなんで一人になったかっていうと、その頃はデモがあるでしょ、安保の(注:1968〜69年に学生の間で盛んになった「70年安保闘争」のこと)。彼と一緒に暮らしてたんだけど、その彼が捕まっちゃったんですよ。中野刑務所入っちゃって。それで一人になっちゃった。

:(笑)

:(笑)だから部屋が空いたし、家賃も大変だから、っていうんで、「銀河」っていう鈍行で東京まで来たんです。朝六時半に高円寺の駅に降り立って、葉書に書いてもらった地図を見ながら歩いて行ってアパートに着いたら、トースターで食パン焼いてくれた。美味しかった。

:そこから万里さんの東京ライフが始まる、と。

:そしたら、いきなり中野刑務所に面会に行くので一緒について来て、ってことになったんですよ。今日行く日だから、って言われて、一緒にバスで行って。着いたら、じゃあ面会してくるから、待ってて、って言われて。彼女、牛乳を差し入れしてました。

:いきなり(笑)。えー、なんか、時代ですね。東京来て、働かなきゃいけないわけじゃないですか。

:談志師匠が選挙出る、ってことになって(注:1969年、第32回衆議院議員総選挙に東京8区から無所属で出馬)、選挙の応援に行ったりしてたけど。働かなきゃいけないから、その子とは新宿のお店行ったの。格式の高い料理屋で、お金持ってるひとしか来ない。サントリーのウイスキーだるま(注:ザ・サントリーオールドのこと)のボトルキープが八千円(注:1969年大卒初任給が三万円弱)。女の子も、カウンター内で着物で対応するんです。以和貴荘で、そういうサービス業慣れてると思ったけど、やっぱりダメで、涙ぐんだりしてた(笑)。顔暗い、って言われたり。

:結構厳しかったんですか。そこで何年ぐらい?

:そこは三ヶ月くらいですかね。その後、ひょんなことからデザイン会社に入ることになって。

:へー。じゃあ、その会社に勤めて。

:そう、デザイン会社。それで文章が面白い、ってコピーライターの養成講座へ行かせてくれたの。コピーライターになればいいんじゃないか、って。それで久保田宣伝研究所(注:現・株式会社宣伝会議)に週三日ぐらい通ったの。わたしの一期上か二期上に、糸井重里さんが居らっしゃるんですよ。

:そこでいまの仕事に繋がる感じですかね、コピーライトの。

:そうね! それがいま役立って。チラシの文章書くじゃない、コピーみたいなことだもんね。役立ってる。

:なるほど。それでお勤めしながら落語会とかには行ってたんですか?

:いや、そんなヒマない。

:あ、やっぱりそうか。

:忙しいから。めったに行ってない。「(立川談志)ひとり会」紀伊國屋ホールに一、二回行ったかな、ぐらい。だって、週に三日学校行ってさ、仕事してたらそんな時間ないですよね。それで、結局コピーって、CMでしょ? 面白くもないものもさ、面白く書かなきゃいけない。いいかどうか分からないものを、いい、って書かなきゃいけない。真面目だから、そういうことに疑問を感じたんですね。

:嘘じゃないか、っていう。

:時代を思うと、いかに物をたくさん売るか、っていう時代ですよね。だから言われたもん。「いらない物でも欲しくなるように書け」って。「それがコピーだ」って。それってさあ...。文章が好きだったから、自分の文章をこんなことに使わなくちゃいけないのか、って思うと猛烈に泣いちゃってね、要町の1DKのアパートでね。

:あー、資本主義に。

:そう!

:(笑)

:「なんだこれは! こんなことのためにわたしは書いてるんじゃない」って。もうひとりで号泣して。ダメだこれは、って思って。それで、極端から極端へ行くんですね、わたしっていつも(笑)。デザイン会社の上司から、書くのが好きなんだったら、作家のところへ連れてってやる、って言われたんですよ。そこで連れて行かれたのが団鬼六さんだったんですよ。SM雑誌出したころ(注:「SMキング」1972年発行)。いま編集者がいない、って。それはもう、CMどころじゃない、生のことじゃない。ホントのホントじゃないですか。それでそこに入ったんですよ(笑)

:入ったんですか! 鬼プロに(笑)

:バリバリですよ、鬼プロに。

:団鬼六全盛期ですか。

:全盛期ですよ! 原稿用紙一枚一万円のころですから。超高い(注:1972年大卒初任給が四万円前後)。

:普通はどのくらいなんですか?

:一枚三千円くらいじゃないですかね。そういうSM雑誌の巻頭、全部団鬼六じゃないと売れない、っていう時代ですから。

:鬼プロっていうのは、何人くらいでやってたんですか?

:友達と、女の子二人でやってて。編集もなにもわかんないのに、いつもぶっつけで。現場で、鬼六先生の原稿が欲しい編集者が、入れ替わり立ち替わり来るわけですよ。そういうひとたちに、「これ、レイアウトってどうやるんですか?」とか聞くわけですよ(笑)。みんな親切にしてくれるよね、若い女の子が聞くんだから。編集の技術は鬼プロで教わりましたね。

:団鬼六さん自身は、どんな方なんですか?

:面白いですよー。天才ですね。あそこは天才一家なんですよ。お父さん小豆相場とかやるようなひとだし、天才的。文章だって、別にそんな勉強してないのに最初から書けたみたいだしね。ほとんど修行とかしてないんじゃないですか。上手。鬼六さんのユーモア小説って、すっごい面白い。もっとユーモアを書いて欲しかったなあ。稼ぐためには、SM小説書いた方が儲かるから。

:全盛期の団鬼六の鬼プロに、何年ぐらい勤めたんですか?

:一年(笑)。

:また一年ですか(笑)。万里さん、早いんだよな。なんなんだろう時代なのかなあ(笑)。

:生意気にも、分かったつもりになっちゃう(笑)。極めた、って思っちゃう(笑)。とにかく忙しくて寝る時間ないし、二人で三百ページぐらい作ってるんだよ? 月刊だよ? 次から次へ。その間に増刊号「花と蛇」(注:団鬼六の代表作のひとつ)も出してたんだから。そうそう。そのころから、談志師匠と鬼六さんって、仲良かったんですよね。

:Bコースでしたっけ、鬼六さんのちに入りますもんね(注:談志と親交の深かった著名人は、立川流Bコースに入門していた。団鬼六は「立川鬼六」。現在は廃止)。

:それで、談志師匠から電話かかってきて。で、わたしが「はい、鬼プロです」って出たの。「なんであんたがそこにいるの」って言われた。

:え、声で分かるんですか!

:分かる。びっくりだけど。で、鬼プロをやめたあとに、タウン誌をやるんですよ。「東京タウン情報」(注:1977年創刊)っていうね。もう編集できるようになったから。それでタウン誌入って、演芸ページを作ったの

:へー。ここでようやく、万里さんと演芸が。

:演芸とボランティアとお神輿のページを作ったの。寄席演芸特集って九ページくらい。小さい落語会や寄席を全部まわって、こういうところがあるとか、演芸場はこんなだとか。イラスト描いてもらって、のっけて。

:そのころの寄席演芸って、どんな感じだったんですか?

:みんな寄席なんか興味ないからね。落語なんか、興味持ってもらえないころだから。

:1977年っていうと、まだ圓生師匠生きてましたよね(注:1979年没)? それでも全然寄席って、流行ってない感じですか。

:流行ってないですよね。落語会行く、って言っても「なにそれ?」みたいな感じですよね。

:はー。それを万里さんが紹介して。どうでした、反響っていうのは?

:反響なんかないよね(笑)。

:(笑)

:それで、なにかの帰りだったんだけど、中央線に乗ってて、わたしと談志師匠と、もうひとり女性がいたんですけど、三人で立ってたのね。そしたら談志師匠に「山本益博が、編集できるひとを欲しがってるから行ってみな」って言われてね。それで「はい」って言って。これで次会ったときに、「あれどうなった?」って絶対聞かれるから「これ行かないとまずいな」って思って。前に、山本益博さんが渋谷ジァン・ジァン(注:2000年閉館)で広沢瓢右衛門さん(注:浪曲師)の会とかなさってたのを観に行ってたから、益博さんのことは知ってたのね。で、行ったら、「花王名人劇場」が始まる(注:1979年)っていうんで、その小冊子を作る編集者が欲しいってことだったんですよ。

:それを手伝うことになったんですか。タウン誌と両方?

:いや、タウン誌は潰れたの。

:あ、だから談志師匠がそういう風に言ってくれて。益博さんのところに行って、と。

:そうそうそう。それで「花王名人劇場」がはじまって。落語関係は益博さんが組んだりとかしたわけです。澤田隆治さん(注:同番組の演出・プロデュース担当)も、大阪から出てきて東京の演芸がどうなってるとか分からないじゃん。それでいろんなひとに声かけてましたね。これが第一回目でしょ。

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万里さんが編集した小冊子です。


:これすごいんだよな。

:談志、(桂)枝雀、(月の家)圓鏡(故・橘家圓蔵)、

:セントルイスも絶頂期ですよね、このとき。

:そう。それから(笑福亭)仁鶴。

:(三遊亭)栄馬師匠も出てるのがすごいよな、芸協(注:落語芸術協会)としては。プログラムも長いですよね。五人いて仲入りであと三人ですもんね。

:そう。これで二番組分作ったと思う。

:素晴らしい番組ですね。これ、伝説の第二回目の番組ですね。

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このときのビートたけしさんも、32歳です。

:そうそう、ツービートが圓鏡の胸を借りる、っていう。まだツービートなんて誰も知らないころ。

:誰も知らないんですか?

:業界では、すごいすごい、ってなってた。

:圓鏡師匠が全盛期で。第一回ではネタ出ししてましたけど、第二回ではもうなにやるかは決めてないんですね。ツービートと圓鏡師匠をぶつけて、万里さん当日いたわけですよね。どっちが受けてました?

:勢いとセンスがあったよね。完全に圓鏡師匠の胸を借りる、って感じ。もう、格が全然違うから。それでたけしさんがお客さん見て、自分たちもそうだけど「国立演芸場の赤い椅子に座って、あがってるんじゃないの?」というふうなことを言ったんですよ、お客さんに。そうしたら圓鏡さんが「お前らすごいね。客にあんなこと言うか?」とマクラでしゃべってた。

:(古今亭)志ん朝師匠が出てないのが意外ですね。一回目二回目あたりで

:そうね。断ったんじゃないの? テレビだからって。分からないけど。

:あ、そうか。そういう時代ですもんね。「花王名人劇場」っていうのは、非常にメジャーな番組というか、流行りの番組だったわけですよね?

:そうですね、日曜の夜九時放送ワンスポンサーだから。

:こういう文章書いてるのは、全部万里さんですか?

:番組趣旨は、構成の神津(友好。放送演芸作家)先生とか山本さんとかかな。いただいた原稿以外は、わたしが書いてたけど。澤田さんに「編集後記」を書いてもらうんだけど、これが入稿一番遅くてさ。締め切りすぎてもう間に合わないから、澤田さんが泊まってる大阪のホテルまで、明け方でもガンガン電話かけて、最後には「もういいです。わたしが書きますから」って言ったら 「いや、書くがな書くがな!」って(笑)

:(笑)へー。じゃあ万里さんが小冊子の編集をやって、顔付と番組構成を益博さんがやって、っていう。

:そう。番組構成は何人かでされていました。なんか人生いつも切羽詰まって忙しいの(笑)

:「花王名人劇場」は、万里さんどのくらい...

:四年! 四年もった(笑)

:一番長い(笑)

:とにかく寝る間もないぐらい忙しいの。編集という雑務、ヘビーですからね。そのころに、うちの父親が亡くなったんですよ。見舞いも、なにも行けない。忙しくて。で、こりゃいかん、と思ったのね。それで辞めます、と言ったら、澤田さんに烈火のごとく怒られた(笑)。申し訳なかったけど、身体も精神も限界だったんです。

:「花王名人劇場」を離れたい、って言った。

:もう編集するのはやめたい、って言って。身体もたないし、あれ以上いたらたぶん身体壊してたと思う。

:それで番組は離れましたけど、万里さんが演芸界で飛躍していったのは、「花王名人劇場」が、かなり。

:大きいですね。礎ができた。

:この間に、「柳昇ギャルズ」(注:Vol.1参照)あって、(立川)志の輔師匠の会をやったり。(東京)かわら版とか、「笑っていーもんかどーか」(注:同Vol.1参照)があって。そのあと、万里さんどうなっていくんですか?

Vol.3「万里さん、いちばん好きなひとと、いちばん嫌いなひとは誰ですか?」につづく。