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サンキュータツオさん(米粒写経)に、訊いてみた。Vol.1 「タツオさん、寄席演芸の原体験はなんですか?」

サンキュータツオ(写真右)
1976年生まれ、東京都出身。早稲田大学の落語研究会で出会った居島一平と漫才コンビ『米粒写経』を結成。ボーイズバラエティ協会員。一橋大学非常勤講師。落語関係の執筆・編集協力などのほか、学術論文なども執筆。
【公式ブログ】サンキュータツオ教授の優雅な生活 http://39tatsuo.jugem.jp/
【Twitter】http://twitter.com/39tatsuo

Vol.2「タツオさん、なぜシブラク(渋谷らくご)をはじめたのですか?」
Vol.3「タツオさん、あなたにとって「神田松之丞」とはなんですか?」

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いま、いろいろな方の話を聴きたい。

真っ先に浮かんだのが、サンキュータツオさんだ。
『米粒写経』で漫才をやりながら、一橋大学の講師もしている学者芸人。

私との出会いは、『渋谷らくご(通称:シブラク)』。
タツオさんは、この落語会の顔付けをしている。

この会は、準備期間がほとんどないなか始まった。
最初は、お客様の入りも決して多くはなかった。

それが、いまや大変な反響、大入りの連続。
私自身、この会に救われたひとりで。
この会は、私のなかで非常に大きな意味を持つ。

毎月、シブラクが開催される五日間、タツオさんはほぼ全日に顔を出す。
大きな仕事を断ってでも、現場に来る。
聞けば、タツオさんのギャラは、顔付け代の数千円のみ。

いろいろな問題が起これば、矢面に立ち、防波堤になってくれる。

しかし、ふと思う。
なぜそこまでする必要があるのか。

タツオさんはよく言う。
「落語に救われた。恩返しをしたい。」

そんなタツオさんの落語の原体験、そこが妙に知りたくなった。

タツオさんの寄席演芸原体験、『シブラク』について、そして松之丞のこと。
いろいろと、訊いてみました。

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松之丞(以下、松):タツオさん、いまおいくつでしたっけ?

サンキュータツオ(以下、タ):いま、僕39(注:1976年生まれ)。

:テレビで最初に観たお笑い番組っていうのは? (ザ・)ドリフ(ターズ)ですか?

:ドリフ。ドリフと、(ビート)たけしさん。
家族でドリフを観てて、「たけし観たい」って言うと、「あんなの下品だから観ちゃだめ!」っておばあちゃんに怒られました。

:そういう時代(笑)。

:で、中学生のとき、ダウンタウンが満を持して関西から上京してきた。
いまもやっている『(ダウンタウンの)ガキの使い(やあらへんで!)』(放映:1989年〜)と、東京で人気があったウッチャンナンチャンと組んだ『夢で逢えたら』(放映:1988〜1991年)っていう番組。
松之丞さん、間に合ってます?

:いや、僕は『夢で逢えたら』は、あとで補完したタイプですね(注:1983年生まれ)。
僕世代は『(ダウンタウンの)ごっつ(ええ感じ)』(放映:1991〜1997年)と、『(天才・たけしの)元気が出るテレビ‼︎』(放映:1985〜1996年)。
ドリフもかすってはいるんですけど。
この短いスパンで、下剋上が起こっていて。
ドリフにとって代わってたけしさん、そのたけしさんをダウンタウンがとって代わってっていう。

:超面白かったよね。当時はテレビにリアリティあって、世代ごとの大スターが生まれていく瞬間というのに立ち会えたし。
『お笑いスター誕生‼︎』(放映:1980〜1986年)から、ウッチャンナンチャンもダウンタウンも出てきたとか。
それは観ていて幸せな体験でしたね。お笑い体験として。
たぶんね、僕らの世代は、ギリギリ画一的なコンテンツを観ていた最後だから。
共通体験がたぶんそこだと思うんだよね。

:タツオさん世代共通のお笑い体験からずれることなく、ベタにウッチャンナンチャンもダウンタウンも好きだったんですね。

:みんなそうだったと思うけど、「松本人志のこと俺が一番よく分かってる」って思ってたから。
そう思わせるものがあったしね、ウッチャンナンチャンにも。
『ごっつ』で、笑いに対して神経質な側面というか、理論的な側面をわりと出していて、そこにすごく興味をもったんだよね。
僕、お笑い番組を観ても笑わない子供だったんですよね。

:(笑)

:"アタマ"で笑わせてくれる人に、すごく興味を惹かれたんですよ。
たとえば、ひとを怖がらせる時に「ワー!」って言ったり、蒟蒻べちゃってやったり、そういう直接的な怖がらせ方があるみたいに、笑わせ方にも脇をコチョコチョコチョッとするみたいな。
そういうやつより、ダウンタウンの"アタマを使った面白さ"っていうものに傾倒していったわけ。

:なるほど。テレビのお笑い体験としては、ドリフ、たけし、ダウンタウンっていう自然な流れがありましたよね。
落語・寄席との出会いっていうのはいつなんですか?

:夏目漱石と内田百閒が好きだった。
漱石、百閒、井伏鱒二、色川武大っていうのが好きで、僕が好きなこの一帯のひとたちってなんだろうなぁ、って思ったら、みんな落語とか講談とかにすごく影響を受けている。
あ、じゃあ大学入ったら落語研究会とか入ってみっかなーぐらいの感じ(注:早稲田大学第一文学部に入学)。

:そういう流れなんですか。好きなひとが興味をもってるものを吸収したい、と。
寄席演芸の原体験、生で落語を観る、っていうのは大学に入ってからなんですね。

:そう。僕はずっとバスケットマンだったから。

:僕もそうですよ! タツオさんの世代は、スラムダンク...(注:漫画連載は1990〜1996年)

:スラムダンク前夜。

:マジック・ジョンソン...(注:選手期間1979〜1991年)

:マジック引退、マイケル・ジョーダン(注:同1984〜2003年)からですね。
日本にBS放送が入ってきたころ(注:1989年本放送開始)。

:あのね、タツオさんのすごいところって、何個かあるんですけど。愛が冷めないですよね

:(爆笑)

:みんなNBA観なくなったじゃないですか。
ジョーダンが引退して、衰退してもタツオさんは見続けるって、それはものすごい愛じゃないですか。

:いや、愛があるかどうか、自分では最早分からないんだけど。
"線"で観る面白さってあるわけ。ジョーダン以前って、バスケはセンター(ポジション)のスポーツだった。
で、ジョーダンがフォワードとかガードよりのスポーツにして、そのあと(アレン・)アイバーソン(注:選手期間1996〜2011年)が出てきて、完全にガードのスポーツにしたからね。
で、レブロン(・ジェームズ。同2003年〜)みたいなすごい強いやつが出てきて、いま(ステフィン・)カリー(注:同2009年〜)がスリーポイントのスポーツにしちゃったっていう。
パラダイムシフトが起こる瞬間に立ち会える喜びがあるわけ。

:"点"じゃないぞと。俺は"線"で、ずっと観続けていくんだっていう覚悟が、全部にありません?

:そうそう(笑)。観続けることの面白さって絶対にあるし。小説もね、書かれた順に読んでいくのが好きなんです。

:へえ〜。

:『漱石研究年表』(荒正人著/集英社刊)っていう分厚い本(注:907ページ)があるんだけど、漱石が生まれてから死ぬまで、どんな天気でどんなことがあったとか、分かっている範囲でだけど、記述されてるのがあって。
自分と同じ年齢の同じ日に、漱石がなにをやってたのか? みたいなのを観る。

:タツオさんはそれが得意だし、"線で観る"楽しさをみんなに知ってもらいたい、みたいなことですよね。

:アニメもお笑いもそうで、ずーっと観続けることで、モードというか、勘所が分かってくるんですよね。
ジャンルの全体像がつかめると、いちいち全部を観なくても、少ない情報で分かることもあるし。
『(東京)かわら版』(注:寄席演芸情報専門誌)を見て、この劇場で何時開演でこの出演者だと、このネタとあのネタとこのネタだよな、みたいな。
悪い落語ファンだけど。

:いや、すごく分かりますよ。

:で、実際行ってその通りになると。これ、俺なんのためにライブに行くんだろうなって。確認作業じゃないかって思って。
松本(人志)さんがライブやった時もそうだし、なんのためにライブに行くのかっていうのを問うた時期があったんだよね。それは確認作業じゃダメなんだ、と。
それからは、なにをやるかよく分かんない会に行くようになりました。

:なるほど。

:そういう、なにが起こるのか分かんない、ちょっとこう、心躍る、みたいな。これって興行の基本だよね。プロレスでもなんでもそうだけど。
そういう重要度が高い演芸の公演に行くと、必ず見かけるひとっているわけ。あのひといつもいるなぁ、みたいなひとたちがいて、そういうひとたちをまとめてたのが、(木村)万里さんだったんだよね。

:へえ〜。

:万里さんが、『笑っていーもんかどーか』っていうフリーペーパーを作っていらして、そこでレビューを書いてたひとたちと、公演後飲みに行ったりとかして。
そういう場での情報交換とかで知見を広めてったなぁ。


落語との出会い-1995年の志ん朝、談志、志の輔


:話は戻りますが、タツオさんは大学に入って、すぐに落研に入って。

:早稲田大学の落語研究会は、他大学の落語研究会と違って、"いい客になる" っていう、訳の分からないことを標榜してて。  
業界で落語を支えるのがいい、っていう教育を受けたんだよ。客を育てないと、"いいもの"が分かる客がいないと、レベルが相対的に下がる、という考え方があって。伝統的に、プロの落語家さんをお呼びして、お蕎麦屋さんの二階の座敷で鑑賞会をやってたんですよ。
ところが、僕が入学した95年、阪神大震災があり、オウム真理教とか、いろんなことがあった95年に、そのお蕎麦屋さんが4月いっぱいで閉店すると。

:ほう。

:で、一年間かけて呼ぶ予定だった落語家さんを、イレギュラーだけど4月に毎週呼ぶことになって。二つ目時代の(立川)談春師匠、先代の(桂)文治師匠、(昔昔亭)桃太郎師匠、(春風亭)昇太師匠。その四人が、毎週末。
全部通しで観て、「うわ、落語超面白いじゃん!」って思った。

:とくに誰でした?

:文治師匠。「(モノマネ)"ありがとうございましたッ"じゃあないン、ありがとうございますってわないと」

:(笑)タツオさんの原体験、先代の文治なんですか! なに演ってました?

:えーとね、『やかん』か『火焔太鼓』だったと思う。すみません、二十年以上前のことで。

: キャパどれくらいなんですか?

:三十人くらいじゃない?

:僕もこの前、早稲田の落研に呼ばれて三十人くらいのところで演らせていただいたんですけど、過去のネタ帳を見たら、先代(柳家)小さんであるとか、ものすごいそうそうたる出演者で。  

:そうそう。その鑑賞会をなんのためにやってるかっていうと、年に一回『わせだ寄席』っていう落研主催の落語会があるわけ。
要するに学生がプロデュースする会なんだけど、三十人くらいの鑑賞会を続けて『わせだ寄席』につなげる。
僕が一年の時の『わせだ寄席』は、五街道喜助さん(現:桃月庵白酒)でしょ、柳家喜多八師匠、立川志の輔師匠、爆笑問題さん、桂文我師匠、という番組。

:豪華ですね。

:それで千五百円。それでも学生が必死にチケット売って、若いひとに落語を聴いてもらうことの大変さを思い知りました。
鑑賞会幹事っていうんだけど、つまりプロデューサーは、交渉事が得意で、落語のことをよく分かってないとなれないポジションなんですよ。
そのときの鑑賞会幹事は、「日本全国の落語家を観た」って言ってるひとで。

:(笑)

:(桂)春團治師匠もそのひとに教わったから、足向けて寝られないんだけど。その先輩が、とにかく面白い落語を聞かせようって必死に。

:いい人ですね。

:ゴールデンウィークには、みんなで寄席に行く『総見』っていうのがあって。 『浅草花やしき』に行って、浅草演芸ホール。

:その先輩にいろいろ教わって、連れまわしてもらって。

:最初のうちは、誰を観ればいいかとか、なんとなく教わって、だんだん過ごしていくうちに、「落研のひとたち、なんとなく気持ち悪いな」って。

:(笑)ようやく気づいた。で、タツオさん卒業して二足歩行になるわけじゃないですか。

:そう、二足歩行(笑)。

:で、卒業してどこに歩いていったんですか?

:志の輔師匠。

:あ、そこで志の輔師匠なんですか。

:さっき話した、僕が一年のときの『わせだ寄席』に出ていただくので、事前にご挨拶に伺わなきゃいけないと。
当時志の輔師匠は、草月ホールで毎月独演会をなさってたんですよ。で、もう5月6月くらいに、独演会行って、すっごい面白いなぁと思って。それから2000年くらいまでは毎月通いましたね。

:そのころ、95年の落語界ってどんな感じでした?

:えーとね、(先代)小さん(注:2002年没)いたし、(立川)談志(注:2011年没)、(古今亭)志ん朝(注:2001年没)まだいたし、(桂)小南師匠(注:1996年没)が生きてた。
あと(桂)枝雀師匠(注:1999年没)が鈴本(演芸場)で独演会やってた。志ん朝師匠が寄席でトリ(注:最後の出番のこと)とると、ようやく埋まる感じ。

:やっぱり志ん朝が圧倒的っていう。

:もう、志ん朝だよね。

:談志師匠はどうでした?

:当時あの『やかん』、『洒落小町』をヘビーローテーションでかけてて、イリュージョン超覚醒期(注:"イリュージョン"は、立川談志の落語論で、その実践例として『やかん』が挙げられている)。

:そうですか、へえ〜、95年。

:でも、「また『やかん』だよ」とか、「なんで『洒落小町』やってんの?」「こないだ(快楽亭)ブラックの独演会で『小猿(七之助)』やったらしいよ」とか、そういう噂が、ネットもない時代でも、あって。

:ネットないなかで、みんなの探り合いの聞き耳立て合いみたいな。

:いま考えれば、そういうことやって、"線"で見せる楽しさを談志師匠は提案してたし、"上手い落語"とはまた別の、面白さ、イリュージョンめいたものに対する挑戦っていうのを、ずっと追いかけてる人だったから、ご本人は一番興奮してた時期だったと思うんだけど。 「なんで『やかん』?」

:(笑)

:もう日によって全然違うし、『やかん』。「また『やかん』だったよ!」みたいな。

:そんな空気ですか。

:談志師匠が長年かけて作り上げてきた"線"、文脈とか、ものの価値とか分からない若造だったから、当時は、やっぱり志ん朝だと。
もう、十日間トリとるって聞いたら、八日は行ってたね。お金ないから夜八時くらいに(新宿)末廣(亭)入って、トリだけ観るとか。
談志は寄席出てなかったけど(注:1983年に落語協会を脱退後、立川談志が創設した立川流に所属する落語家は、鈴本演芸場、新宿末廣亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場の通常興行に出演していない)、すごい人気があったし、なんかね、出てきたときの空気感がもう、全然違った。
他の落語家さんと違う、もうね、威圧感。咳払い一つもしちゃいけない、みたいな。とにかく、怖かった。

:(笑)

:怖かったし、これ分かんなかったら、たぶん俺がダメなんだろうな、みたいな。

:なるほどなるほど。


「志の輔師匠の落語観、興行観がベースになっている」

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:たとえば、僕は当時大学のクラスメイトと、落語の話をしたいな、って思ってたわけ。

:(笑)ちょっと僕はそれ分かんないんですけど。タツオさんて、若干ミーハーなところありますよね。

:ミーハー、ミーハー。俺はね、すごく普通の人間だと思ってて。俺が分かるんだから、みんな分かるっしょ、って思ってたし、俺が感動するものは、みんな感動するはずだって。
それで、「いやー、昨日の『八五郎出世』よかったわー」みたいな話を、当時流行していたトレンディドラマの話をするような感覚で、したかったんだよね、友達と。
だって、「『坊ちゃん』の友達の先生の手紙の話長すぎね?」みたいな話はできるわけよ、文学部畑の人と。
そんな話ができるんだったら、当然落語の話できるはずだし、なんでこれ分かんないんだろうって思って。これは知るきっかけがないだけだと。
っていうときに、いちばん最初に誰を観させるかってったらもう、志の輔師匠でしょと。だから「この人のことを全部吸収しよう」と思ったわけ。

:タツオさんは素地として、啓蒙好きなんですね。

:当時はとにかく"共有"したかったんだよね、この興奮を。同世代の友だちと。
僕の落語観は、基本、志の輔師匠。落語観というより、興行観というか、まわし方に関しては"志の輔師匠の感覚"がベースにあると思う。だから志の輔師匠に顔覚えてもらえるレベルで毎月行ってた。

:その時の草月ホールでの志の輔師匠はどんなことやってたんですか?

:草月のパッケージは、マクラ込みで滑稽噺一席。で、ゲストがね、必ず音楽。
音楽やるひとを必ずゲストに呼んでて、当時まだ無名だったけど、栗コーダーカルテットとか、森山良子さんとかが歌うんだよ。
だから一般のひとがすごく入りやすいし、ひとに勧めやすい独演会にしてたんだと思う。で、休憩はさんでトリネタ一本っていうパッケージを、毎月やってたね。

:そうか、志の輔師匠は1983年に談志師匠に入門して、その十二年後にもうそのレベルのことをやってた。

:やってたやってた。そうだよね、入門七年で真打昇進して、五年後にはもうあそこにいたわけで。
僕、当時『志の輔(春風亭)小朝ライバル論』っていうのを書いてたんだよね、ミニコミ誌みたいなのに。"丸い小朝"と"四角い志の輔"、丸と四角で比較したんだけど。

:へ〜。

:志の輔師匠と小朝師匠って、ほぼ同い年で入門が十年以上違う (注:志の輔は1954年生まれ、1983年入門。小朝は1955年生まれ、1970年入門)。
でも、人気を二分してる感じっていうか、それこそウッチャンナンチャンとダウンタウンの関係に近かった。だから俺にとっては、自然なライバル。小朝師匠って、ずっと「ライバルいない」って言われてたみたいなんだけど。

:あ、そういう流れでタツオさん、大学の卒論で志の輔師匠に取材したんですね?

:三年生で落研の鑑賞会幹事になって、『わせだ寄席』を僕の年だけ二回やることになって。その二回目に、志の輔師匠に出てもらったのさ。
僕が尋常ならざる情熱で独演会に来てる、っていうのは師匠も分かってて、でもどうやら弟子入り志願ではないぞ、と。そこで、「僕、卒業論文でこういうの考えてるんです」と取材をお願いしました。

:どんなことを聞きました?

:その日に演るネタを選ぶプロセスの話とか、マクラをどうやって組み立てるのか、その重要性であるとか。
今日マクラでしゃべりたい時事ネタがあって、そのなかには人間の普遍的なテーマがあって、そのテーマに沿うネタを選ぶ。
だけど、そのテーマに合った古典落語がないときはどうしたらいいんだって。じゃあ自分で作るか、っていう話。だから、古典にあるテーマは、新作では演らない。
ただ、それは志の輔師匠単体を追っかけても見えてこない"線"なの。当時ね、志の輔師匠と昇太師匠は、毎年必ず一緒に旅行に行ってたんだよ。
その旅の顛末を、志の輔師匠が独演会でしゃべり、昇太師匠も独演会でしゃべる。そんな相互リレーをしてて、ある日突然、ずっと新作しかやってなかった昇太師匠が古典を始めたんだよね。

:それはいつごろですか?

:98年くらいだったかなあ。で、古典やってた志の輔師匠が新作を演りはじめて、っていうクロスオーバーがあった。

:それはお互いを意識して? それとも世相があってというか、どっちなんですか?

:んー、やっぱりお互いへの意識があったと思うんだよね。昇太師匠は、ずっと新作だったけど、これから長い落語家人生を考えたときに、古典っていうのを、いっこ武器にしないといけない、っていうのがあったと思う。新作を作ったことがあるひとにしかできない、古典の演出の仕方をしてたから。
いま、『壺算』をいろんなひとが演ってるけど、当時はあまり演るひといなかったんだよね。『壺算』がすげー面白い噺だって気づかせてくれたのが、昇太師匠だった。それがすごく印象に残ってるね。

:志の輔師匠を取材して、タツオさんが出した結論っていうのは?

:志の輔師匠を観て、まったく笑わなくなった。というよりも、毎回納得して、"感動して笑う"というより、唸るしかなくなったんですよ。

:ロジカルに、そういう風にやってるんだよと、種明かしで見せてくれたからですか?

:志の輔師匠は、よく声が悪いって言われるんだけど、いい声だって思わせる演出だったりだとか、頭の回転が速くて、自分の思ったようにしゃべり方をコントロールできるっていうのは才能だと思うんだよ。
プラス、努力とロジックでどこまでいけるのか、っていう夢を見させてもらったし、全部、「そうだよな、そうだよな」って理解ができる。この日、たぶんネタはこれだ、で、行ってやっぱりそれっていう。だいたいわかってきたぞ、と。

:プロレスと一緒ですね。

:そうそうそう(笑)立川流は寄席に出ないし、ひとつの団体として決まった仕事がない。
そういう仕事がないなかで、どうやって仕事作るかっていうと、まず需要を喚起して、その需要に、どうやってアプローチしていくのか、っていうこととか、ご本人は直接言わないけど、見てていろいろと学ぶところはあった。
だからそれが僕の芸人人生にも、『渋谷らくご』(注:2014年より渋谷・ユーロライブで毎月開催されている、サンキュータツオ・キュレーションの公演)にも活きてる、と思いたいです。


漫才コンビ結成。そして落語から離れる大決断。


:よく言われると思うんですけど、落語家になろうとは思わなかったんですか?


思わなかったんですよね。志の輔師匠いれば十分でしょ。

:あー分かる! すっごい分かる‼︎

:志ん朝師匠がいて、小三治師匠がいて、志の輔師匠がいて昇太師匠いたら、俺が落語家になったって、誰が聴くの?

:分かりますよ。つまり、客観的に、いま俺が普通にやったらどれぐらいできるかってことを、すでにやってる人がいるなら俺必要ないし、って考え。

:志の輔師匠をずっと見てて、これとまったく違う方向で、このひとを超えられるなにかがあるか、って言ったら、やっぱり思いつかなかったし。
師匠にね、言われたの。落語って、たぶん"分かる年齢"っていうのがあるんだと。で、「君はたぶん、18で"分かる年齢"だったんだよ。それはすごい幸せなことかもしれないし、不幸なことかもしれないけど、"分かる年齢"が他の人より早かったんだよ」って言われたんだよね。
確かにそうかなって思ったんだけど、それに加えてね、"やりたくなる年齢"っていうのもあると思う。

:なるほど。

:俺は、ぜんぜんやりたいと思わなかった。

:そのかわり、漫才師になった。

:落研の先輩の、居島(一平)さんがあまりにも面白くて、好きすぎて(笑)。クラスどころか、学校単位でも一人もいないタイプだよなって思って。

:そうですね、確かに怪物ですよね。

:どうやって生まれ育ったらこんな人間になるんだろうっていうのが、ずっと。

:(笑)

:もちろん単体でも面白いひとなんだけど、隣にだれかがいることで、本人も気づかない面白さを絶対引き出せる、という自信があったんだよね。
そして、世の中のひとに、こんな面白い生き物がいるってことを知ってほしくなった。最初は落研で漫才やろうかっていう感じではじめて。
学内ではウケて、スベったことなかったから、なんか力試ししたいなって言ってるときに、浅草キッドさんのライブで『ネタ見せ募集』ってあって、それが何を意味するのかは分からなかったけど、  学外のライブで、どういう反応なのか見てみたいねって、それで行った。そしたら、キッドさんが「面白かったよー! 来月も来いよ!」と、おっしゃってくださって。
  
:えー、すごいじゃないですか!

:舞い上がりましたねえ! 先のことなんか考えず、いけるとこまでいきたいと思いました。
そこに来てたのは、東京ダイナマイトさん、U字工事さん、マキタスポーツさん。プチ鹿島さんや、阿曽山大噴火さんもいましたね。
そういう面白いひとたちと、キッドさんに選ばれて、「うわー、なんか、ありがたいけど、あれ? 俺、芸人になりたかったのかなあ、大丈夫かなあ。よくわからないけど、まあでも、居島さんと相談してなんかもう成り行きに任せよう」みたいなふわふわした気持ちでした。
一大決心して来ていた他のひとたちに申し訳ない気持ちがあったけど、そういうふわふわした気持ちでした。  いい加減ですよね。

:成り行きなんですか。あの、漫才師にも売れ方とかあると思うんですけど、当時タツオさん、いまの形を見据えてたんですか?

:全然。最初の十年くらいは、辞めるタイミングを探してたよね。これ、いつまで続けるんだろう、みたいな。居島さんが売れてくれたらね、自分も辞められるっていう気持ちではあった。

:大学院に行ったんですよね? 

:行った。学部五年で修士三年。博士六年。十四年(笑)殺人初犯くらい(笑)。

:(笑)タツオさん、修士とかやりながら漫才やってたってことですか。

:そうだね、なんか、できちゃったんだよ。あんまり忙しくなかったし、そんな浮ついた気持ちのまんまだったから。
でも、落語のことはずっと気になってたんだけど。芸人やり始めて、それも大学院に行きながらだから、お金がなかったのもあったんだけど、客席に行きたくないっていう気持ちが強くなっちゃって。

:それはいつごろですか?

:やっぱり、志ん朝師匠が亡くなってからかな。なんか、タイムマシンに乗りたいなって思った。
たとえば、十年後二十年後、(柳家)喬太郎師匠ってどうなってるのか、昇太師匠ってどうなってるのかなって思ったときに、 「あ、いっかい落語から離れた方がいいんじゃないか」と思って。
で、情報も追わないようにしたのよ。『かわら版』の定期購読もやめて、これでもう情報入らないぞと。

:大決断じゃないですか(笑)。

:大決断(笑)。

:(笑)それ、どこで復活したんですか?

:漫才は、売れないなりに、月二十本くらい出てた年もあったんだけど、大学院行きながら、就職氷河期だし、たぶん博士号もとれないし。
じゃあ、芸人で食えるまで頑張ってみるかと。事務所に入って、プロとしてやってこうと思ったのが、2008年。

:けっこう最近ですね。2008年って。

:僕の中では、芸人スタートは2008年

:そこから、なんでまた、落語観ようって?

Vol.2「タツオさん、なぜシブラク(渋谷らくご)をはじめたのですか?」
Vol.3「タツオさん、あなたにとって「神田松之丞」とはなんですか?」につづく。-