Blog

木村万里さん(渦産業)に、訊いてみた。Vol.1「万里さん、なぜ「神田松之丞」を"志の輔師匠以来の抜擢"したのですか?」

木村万里(写真右)

1948年、富山生まれ大阪育ち。笑いのジャンルシャッフルライブ「渦」を主催するほか、夢空間、成城ホール、北沢タウンホール、清瀬けやきホールなどの公演の企画制作を手がける。

【ホームページ】http://uzumarishiro.web.fc2.com/index.html
【Twitter】http://twitter.com/uzumarishiro

Vol.2「万里さん、立川談志師匠と「神田松之丞」は似ていますか?」

Vol.3「万里さん、いちばん好きなひとと、いちばん嫌いなひとは誰ですか?」

photo01.jpg

木村万里さんに、お話を伺いたい。

万里さんは、いつも物腰が柔らかく演芸愛にあふれている。それでいて、郷愁に浸るのではなく、前向きで新しいものにも非常に積極的。

フットワークが軽く、色々な場所にもお越し頂く。

初めてお会いしたとき、あまりにもその自然体な空気に驚いたのを思い出す。

ふと、誰かに似てるなと...そうだ、うちの師匠を思い出す。わたしは師匠、神田松鯉がこよなく好きだ。

タテ前座(一番年季のある前座)に連れられて、見習い前座が初めて挨拶をするとき。

師匠はわざわざ座っている自分の座布団をはずし、入ったばかりのものに「神田松鯉です」と深々と頭を下げる。

そういう光景に、ただただ圧倒される事がある。

わたしは万里さんに同じものを感じる。謙虚で優しい、と同時に、ぶれない芯と力強さを感じる。

そういう人の演芸原体験や、お話を伺いたい。

そんな万里さんに、インタビューしてきました。


松之丞(以下、松):僕を最初に観ていただいたのは、「あかぎ寄席」(注:松之丞がレギュラー出演していた若手中心の地域寄席)でしたっけ。

木村万里(以下、万):不思議ですよね。「あかぎ寄席」で最初「グレーゾーン」(注:松之丞の新作講談)だもんね。

:どういうわけで「あかぎ寄席」行こう、って思ったんですか? 「松之丞いいらしいよ」とか耳に入って?

:そんな感じですね。それで観てみよう、と思って。

:で、「渦」(注:木村万里主催のジャンルシャッフルライブ)に呼んでいただいて。そこで(橘)蓮二さん(注:フォトグラファー)ですとか、いろんな方と会わせていただいて。夢空間(注:演芸イベント企画会社)さんの公演に、万里さんプロデュースで「咲け咲け、はなし畑」に出させていただいて、さらに独演会(注:「松之丞ひとり夢成金」)っていう。「あかぎ寄席」で僕の印象ってどんな感じだったんですか?

:講談に興味があるないにかかわらず、"場"がつかめるな、ということと、笑いが取れるな、って。それでぴしっ! と講談もできる、っていうのは満貫ドラドラ(注:麻雀で高得点になる手のこと)いいんじゃないかと思いました。なにより、古臭くないから(お客さんを)誘いやすいと思ったんです。

:それ、結構大事なポイントですよね。僕をあの段階で観ていただくって、相当"早い"という感じがします。2014年の6月ですけど。

:早い? わたし、遅かった、と思いました。成城(ホール)とか出てらしたじゃない? お名前見て気になってましたし。

:失礼な言い方かもしれないですけど、この業界で万里さんくらい長くなると、"現場"に行かなくなるじゃないですか。万里さんって、一番フットワーク軽くどこにでも行かれますよね。

:面白いことが好きなんですよね。クリエイティブなことが。新しいことが好き。とは言いつつ、古くてもそこに漂う、えも言われぬ味わいに、ぞっこんになったりもしますが。

:年間どれくらいライブ行くんですか?

:そんなに行かないですよ。仕事もあるから、自分の公演も入れると月十本くらいじゃないですかね。

:行く/行かないを決める基準はなんですか?

:会場が近いか遠いか、広いか狭いか、こっちは空いてるけどこっちは満員、これから先また観られるかどうか、体力のいる会かそうでもない会か、いろんな判断の基準を総合して、「今日はここかな」って。夕方五時六時くらいになると「うーん」って悩んでますよ。

:たとえば、ひとから「この芸人さんいいよ」ってすすめられて、万里さんが観にいって。その芸人の、なにを見ますか?

:お客さんを楽しませられるかどうか。次にどういうところを狙ってるか、もしくは狙ってないか、そういう意思があるかどうか。なにもなければ、それはそれで頼もしいし。

:客層とかも見ます?

:見ます。客層から受付から会場の具合から、総合的なマッチングね。でも、だいたい(東京)かわら版(注:寄席演芸情報誌)を見て、出演者、会場、開演時間、料金、どの主催者がやってるか、で、だいたい分かりますよね。どういうひとが集まってて、どういうことをやってるか。だいたい類推できます。

:前回のインタビューで(サンキュー)タツオさんも同じことを言ってました。行かなくても分かる、みたいな。(会場の規模が大きくなってゆくなど)芸人の成長も含めて、活字で追えるってことですよね。タツオさんと万里さんって、タツオさんが学生(注:早稲田大学落語研究会に所属していた)のころからお知り合いなんですよね。

:演芸の場で知ってる、って感じですね。演芸友達だから、ほかのひとたちと一緒に、「あ、来てるね」っていう。

:そのころのタツオさんって、どういう感じだったんですか?

:いつも紫色の服を着用した真面目な好青年でしたよ。理屈っぽかったかな。いまも真面目ですけど。漫才師になった、って噂で聞いたときには「向いてないんじゃないかな?」って実は思ってた(笑)。文京シビックホールで、東京漫才の会を続けてたのも観に行きました。去年、落語会のゲストに二度出てもらって、上手になってて見直しました。居島(一平)さんていう、いい相方を得て、ああ、ほんとに漫才師になったんだ、って。なによりも学者芸人っていう新ジャンルを確立したのがえらい。シブラク(注:渋谷らくご。サンキュータツオがキュレーターをつとめる公演)もいい展開に持っていって、裏方としても立派で。

:「漫才師に向いてない」という万里さんの予想は、いい意味で裏切られましたね(笑)。タツオさんも言ってましたけど、当時のお客さんでよく見かけるひとたちをまとめていたのが、万里さんだったとか。

:まとめてるつもりはなかったんだけど、そういう印象を与えているのはたぶん、こういうのを発行してたからかな。

photo02.jpg

万里さんが発行していた「月刊笑っていーもんかどーか」。通称「ワラモン」


:ここにタツオさんも書いてた。

:読みたいなー。尖ったこと書いてるんだろうなー(笑)。

photo03.jpg

ペンネーム「むらさき」でした。


:レギュラー陣が多くて毎回ほぼ同じメンバーが書いてる。こういうのを書くくらいだから、みんな演芸が好きで、いろんな現場でよく会うわけ。

:この「笑っていーもんかどーか」を出すきっかけはなんだったんですか?

:当時、文化人類学者の山口昌男さんの紹介で、「火の子」という飲み屋(注:西新宿の文壇バー。2002年閉店)で週二回働いていたの。ママとも気が合って。タツオさんのゼミの先生で、平岡篤頼さん(注:フランス文学者)が飲みにいらしたりとか、武満徹さん(注:作曲家)とか谷川俊太郎さん(注:詩人)とか、大江健三郎さん(注:小説家)とか、文化人が集まるところで。勉強になりました。

:へえー。

:そこで週二回働きつつ、かわら版の公演情報整理や、ライブルポとかインタビューとかゴーストライターやってたの。

:じゃあ、万里さんが一番演芸観てるころなんですか?

:そうですね。でも、いまの方が観てるけど。このころは、演芸落語よりも、お笑い・コントとかを観てました。ライブを観に行った帰りに、若い女の子たちがしゃべってるのを聞いてたら、すっごい詳しいんですよ。「あのひと、事務所を離れてこうこうこうだから」「このギャグ、あのときやってたよね」とか。ネットないころですよ。これはわたしなんかが書いてる場合じゃない、みんなの文章をもらった方が早い、と思ったんですよ。その方が、全体が見えるなって。自分で書くよりも、いろんな視点で書いてもらった方が、私も勉強になると思って。

:それではじめたんですね。いろんなひとの感想を集めて、みんなで共有しようよ、みたいなムーブメントを万里さんが起こした。

:ムーブメントなんかにはなってなくて、もの好きが「なんかやってる」って感じでしょう。書いてもらったお礼に五百円の図書券を送ってたんだったかな。投稿は葉書で送ってもらったり、締め切り過ぎて、慌てて直接うちに持ってくるひとがいたり。だから(記事のサイズが)葉書の大きさでしょ。葉書をレイアウト(注:印刷する紙のサイズに合わせて配置すること)してくれていたのが、ご近所だった「ダーリンは外国人」を描いた小栗左多里さんなんですよ(注:「ダーリンは外国人」は、漫画家の「さおり」がアメリカ人ジャーナリスト「トニー」との生活を描いた自伝的漫画)。漫画家でなんとか生きていこう、って思ってたころ。

:あ、そうなんですか! へえー。

photo04.jpg

当時は少女漫画誌に描いていらっしゃいました。

:これをさまざまなライブ会場で、主催者さんから了解をとって無料配布してたんですよ。

:はー。これは自費でやってたんですか?

:後期には、一枠五千円の広告料をもらったりして。千部くらい刷って。定期購読のひとからは、一部百円計算で、図書券か切手をもらってました。若くして亡くなったナンシー関さん(注:版画家・コラムニスト)も定期購読者でした。

:「笑っていーもんかどーか」は何年ぐらい続いたんですか?

:四年ぐらいかな。ライター同士でもめしたりして、面倒くさくなっちゃったのもあるし、面白くないライブは面白くない、ってライターも書くから、そうすると書かれた側は面白くない。そこらへんを考慮したり、按配する力が、わたしにはなかったんですねえ。

:規制も掛かったりして。じゃあ、もう楽しくなくなっちゃって、やめようか、と。

:そう。マンネリも感じはじめていたし。

:でも、「笑っていーもんかどーか」があって、タツオさんがそこにいて。それがシブラクにつながって、若いお客さんがいま増えたりとか。これは間違いなく、万里さんがコツコツコツコツ、だれもいない時代にやってきたことの広がり、流れだと思います。万里さんの人脈すごいし、ライターとしての才能もありますから、いろんなところに引っ張りだこですよね。当時、万里さんみたいなひといないから、いろんなひとに「あれやって」「これ手伝って」と頼まれて。

:そう。(立川)志の輔さんに言われて、四谷の蕎麦屋の上(注:四谷倶楽部)で落語会をはじめたときに、こんなひとに出てもらったらいいんじゃないか、と、勝手にいろんなゲストを呼んで紹介していました。(春風亭)昇太さん、ヘルシー松田さん(注:Vol.3参照)、木村(晋介)弁護士さん、王様とロバの耳さん(注:お笑いコンビ)...

:志の輔師匠は、万里さんどういう印象を持ちました? 興行とか、全部含めて。ちょっと普通の落語会と違うことをやり続けたひとだと思うんですけど。近くで見続けて万里さんどう思いました?

:最初、「花王名人劇場」(注:1979〜1990年までフジテレビ系列局で放送されたバラエティ番組。詳細はVol.2参照)がらみで、コント赤信号(注:渡辺正行、ラサール石井、小宮孝泰によるコントグループ)さんと知り合いだったんですよ。「今度(立川)談志師匠のところにうちの大学の先輩が弟子入りするんですよ」って(注:志の輔は明治大学落語研究会で渡辺、小宮の先輩にあたる)。それで入門して、もともと広告の世界にいたから、なにをどう展開していけば、お客さんがどう増えるか、って常に考えてましたね。立川流だし、寄席には出ないわけだから(注:立川談志が1983年に落語協会を脱退したため、立川流に所属する落語家は都内の寄席(鈴本演芸場、新宿末廣亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場)は基本的に出演しない)、わたしが言ったのは「落語会を組んで出してもらって、今回志の輔スケジュールダメだから他の落語家を使おうか、って立場にいたのではだめだ」と。「"志の輔でなければ"っていうものを作らない限り、売れていけないよね」って。だから、いろんなことやったんですよね。毎週水曜日の夜十時から、下北沢駅前の、いまはOFF・OFFシアターになってるところで、落語なしのトークライブを一時間やったり。毎週ネタを作らないといけない。頑張って続けてましたよ、お客さんが三人とかゼロのときもあったらしいですけどね。

:タツオさんにインタビューしたとき、タツオさんがはじめて志の輔師匠を観たころ(注:1995年)は、すでに草月ホール(注:キャパ530)で、いまの志の輔師匠に近いようなやり方をしてたとか。草月以前は、どんなところでやってたんですか?

:草月は、天井が高くて音楽がきれいに聴こえるから、音楽のゲストを主にわたしが呼んでたんですよ。その前は(キャパ)300の、東邦生命ホール。いまは(渋谷)クロスタワーホール? 300の前が四谷だったかな。(四谷倶楽部は)パンパンに入って60、普通は30なんだけどね。

:もういきなり、60から300に行ったんだ! 僕の話になっちゃうんですけど、7月に博品館(劇場。キャパ380)でやるじゃないですか(注:2016年7月26日「神田松之丞独演会(其の四)〜松之丞ひとり夢成金〜」のこと)。万里さんの記憶では、二ツ目が博品館で独演会をやるのは志の輔師匠以来(注:1986年)だそうで。

:(春風亭)一之輔さんは真打になってからだったかな(注:2012年10月17〜19日。一之輔は2012年3月に二十一人抜きの抜擢で真打昇進)?

:博品館でやるというのは、夢空間さんが決めたんですか? それとも万里さんが?

:わたしが、博品館でやれたらね、って。そしたらちょうど空いたって。博品館は演劇やミュージカルなどの長期間公演を優先で入れるから、空きを待つしかないんですよね。志の輔さんのときは、博品館が出来たばっかりで、やっぱりなにかで空いたのかな、(使用料を)安くするから誰かやらないか、ってブッキング担当者が探してる、って友だちに聞いて。じゃあ、二ツ目だけど、志の輔さんでやらせてもらおうか、ってなって。

:志の輔師匠は博品館でできる感じのところまでいってたんですか!

:できるような感じではなかったですよ。まだブレイク前で、二ツ目で。

:でも、万里さんに大勢のなかから選ばれたんじゃないですか。

:選ばれたもなにも、すでに志の輔ライブで関わってたから。ここで二ツ目のうちにやるしかないよ、って。そしたら、博品館は入場料三千円以下ではやってほしくない、って。会場の格が落ちるから。三千円以上じゃないとダメ、って言われたんですけど、志の輔さんは「俺の芸は、まだ三千円取れないし、親戚もそんなにいないし(笑)」って(笑)。

:俺の会いくらだっけ? (チラシを見て)二千七百円だ(笑)

:で、それじゃあみんなに鱒寿司つけようってことになって、鱒寿司買ってつけたの。

:鱒寿司付きで三千円。

:スポンサーに富山をつけるしかないと思って(注:志の輔は富山県出身)。富山のお土産いっぱいつけよう! ってことになって、南部風鈴とかチューリップの球根とか、紙袋にいっぱい入れて、それ付けるから来てくださいな、って。

:その会は満席になったんですか?

:ご招待も入れて満席になりましたね。志の輔さんのおかみさんと一緒に頑張りました。まずは観てもらわないことには、話にならない。このとき手伝ってくれたのが、いま「渦」で試飲をしている、広島のお酒「富久長」の杜氏(注:今田美穂)。杜氏になるとは全然思ってなかったころです。

:いや、すごい。380売ったという。万里さんとしても、志の輔師匠がここまでなると予想してましたか?

:ここまでとは思わなかったね。いいところまではいくとは思ってたけど。志の輔さんの頑張りです。松之丞さんの今度の会と大きく違うのは、志の輔さんのときはご本人が自腹でやってた、ってことなんです。時代的に、どこも主催してくれるような環境はありませんでした。だから、自分でやるしかなかった。でも、そのおかげで、公演制作の実態がみえたんじゃないかな。

:タツオさんと話したときに、志の輔師匠は1983年に入門して、三年後に博品館、七年後に真打昇進(注:1990年)、十二年後に草月ホールいってるんですよね。急ピッチですよね。

:思えば、いまより、二ツ目のころの方が、忙しさの質は違うでしょうが、もっと切羽詰まって忙しかったんじゃないかな。テレビにラジオ、毎週(トークライブの)ネタ考えなきゃいけなかったわけだし。それはもう大変だったと思います。すごい必死だったし、常に時間が足りなかった。で、真打昇進のときに、こういうの編集させてもらいました。

photo05.jpg
photo06.jpg

真打昇進記念「かってに志の輔コレクション《全一冊》」


:これをデザインしてくれた間村(俊一)さんが、このあいだの内幸町ホール(注:2016年3月18日)に松之丞さんを観にきて、感動してたよ。教えてくれてありがとう! って握手されちゃった。

:わあ、嬉しいなあ! そういえば夢空間さんと万里さんと、どういう繋がりがあるんですか?

:その後も毎月志の輔さんの会に関わっていて、その打ち上げに土屋さん(注:夢空間の社長)がいらしてて。なんか面白そうな番組を組んでみませんか、ってお誘いいただいて。

:その縁で。

:志の輔さんも、「万里さんやればいいのに」って言ってくれたんだけど、これが難しいわけで。いろんなひとがすでにいろいろやってらっしゃるでしょ? それでわたしがどんな会をはじめても、それこそシブラクも大変だったと思うけど、競争っていうの? ほかの会のお客さんを取っちゃう、みたいな。そうならないでやるとなると、新しいひとを探してやるしかないもんね。

:それで僕とか、若手中心という感じなんですね。僕、すごいなと思うのは、万里さん現場にすごい行きますよね。道楽亭(注:新宿のライブハウス。松之丞が独演会を開催していた)にも万里さん来ていただいてたじゃないですか。

:だって、道楽亭のひと、前から存じ上げてたので。

:あ、橋本さん(注:道楽亭のオーナー)知ってるんだ。

:橋本さんは「渦」に足繁く通ってくださるお客さんだったの。わたし昔、(春風亭)柳昇師匠の「柳昇ギャルズ」を仕掛けたんですね。道楽亭ができたから知ったんだけど、橋本さんの奥さんが「柳昇ギャルズ」に入ってたっていうんでびっくり!

:あ、そうなんですか! 万里さんの作った「柳昇ギャルズ」っていうのは、僕は名前だけ知ってるかんじですけど、実際どういう感じだったんですか?

:これ、わたしが作ったと言っていいかどうか...あまり書かないほうがいいかもしれないけど。実は作ってくれ、って頼まれたんですよ、「花王名人劇場」からね。番組として柳昇師匠を推したい、って。そのころ"なんとかギャルズ"って流行ってたんだよね。それで「柳昇ギャルズ」って名前つけて。赤坂の飲み屋で相談されて、でもなあ、いいのかなあ、ってずいぶん拒んだのを覚えています。でも、師匠が有名になるならいいのかなあ、って悩みに悩みました。

:あー、それで柳昇師匠の名前を広めようと。

:するとマスコミからの取材申し込みがたくさんきてさ(笑)。おじいちゃん(注:柳昇は当時60代)に若いファンの子がついてる、っていう図式が面白かったんでしょう。写真撮らせてください、って雑誌のグラビアに載ったりね。

:万里さんが仕掛人みたいな感じだったんですね。

ryusho.jpg

柳昇師匠と万里さん。


:そうそう、裏でね。わたしは"書記長"と名乗ってた。ゴルバチョフ(注:ソビエト連邦共産党書記長)のころね。隊長は別にいて。隊長が全部仕切ってました。花見とか催し物企画したり、ひとを集めたり、連絡したりしてましたね。番組でおそろいのトレーナーも作ったし。柳昇師匠の「日照権」(注:新作落語)の絵を高橋春男さん(注:漫画家)に描いてもらって。

:なるほど。それはやっぱり女性だけで。

:女性だけ。ギャルズじゃなくてバルズだ、って言われてたりもして(笑)。

:入会の仕方は?

:入りたいひとは隊長のところに行って。わたしは番組の小冊子を編集するので寝る間もないくらい大忙しだったし。呼ばれたら花見に行くくらい。何年ぐらいやってたんだろう? 隊長が辛くなっちゃって、ついに柳昇師匠に経緯をバラしちゃったのね。

:本当は自然発生じゃない、って!? じゃあ、柳昇師匠知ってるんですか! うわー。

:そう、ご存知で。でも、柳昇師匠は「いいよいいよ」って。広がっていく方が嬉しいからって。行くところ行くところ「ギャルズがいるんですよね」って聞かれるじゃん。それが嬉しいから。

:柳昇師匠は、知っていて最後まで、ご満悦だったんですね。

:別派ができたり。

:別派ってなんですか?

:隊長を通さずに柳昇師匠の追っかけをしているのを、別派と。

:それ、ほんとうに自然発生のファンが出来た、ってことじゃないですか。

:そうそう。柳昇師匠を観たらファンになるからね。だって、新作落語面白いし、可愛いおじいちゃん。

:道楽亭からまさか「柳昇ギャルズ」の話が聞けるとは。このあと、万里さんの原体験を伺っていきたいと思っているんですけど、万里さんの歴史のなかで、僕と似たような芸人っていますか?

:ちょっと談志師匠に似てる部分があるかもね。

:談志師匠ですか。

photo07.jpg


Vol.2「万里さん、立川談志師匠と「神田松之丞」は似ていますか?」

Vol.3「万里さん、いちばん好きなひとと、いちばん嫌いなひとは誰ですか?」につづく。